人が見るもの(人が眼差すもの)は、見られ得ないものである。Ce qu’on regarde, c’est ce qui ne peut pas se voir(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論 théorie du narcissisme から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(ミレール 、Première séance du Cours 2011)
光学的図式(鏡像段階モデル)は、私の教えの準備段階に遡るものであり、分析テクニックにおいて過大に見積もられたこのモデルにおける想像界を取り払うdéblayer l'imaginaire 必要がある。われわれはもはやこの段階にはいない。…
私のモデルは対象aに光を当てることに失敗している。このモデルは、イマージュの戯れjeu d'imagesを表すとき、対象aが象徴界から受け取る機能を描写できていない il ne saurait décrire la fonction que cet objet reçoit du symbolique 。(ラカン、Remarques sur le Rapport de Daniel Lagache、E682 、1960年)
対象a とその機能は、欲望の中心的欠如 manque central du désir を表す。私は常に一義的な仕方で、この対象a を(-φ)にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
丸括弧のなかの (-φ) という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エレルギーのなかに充当されない ne s'investit pas 何ものかである。
この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く充当(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。
ーー自身の身体の水準において au niveau du corps proper
ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire
ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme
ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste
(ラカン、S10、05 Décembre 1962)
《自体性愛 auto-érotisme》という語の最も深い意味は、自身の欠如 manque de soiである。欠如しているのは、外部の世界 monde extérieur ではない。…欠如しているのは、自分自身 soi-même である。(ラカン、S10, 23 Janvier 1963)
不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)を置いた場に現れる。(-φ)とは、想像的去勢 castration imaginaire を思い起こさせるが、それは欠如のイマージュ image du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre l962)
ーー《欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。》(Lacan、1976、 AE573)
窓の枠組みの上に位置づけられた絵 un tableau qui vient se placer dans l'encadrement d'une fenêtre⋯この馬鹿げたテクニック Technique absurde⋯それは人が窓から見えるものを見ない ne pas voir ce qui se voit par la fenêtreようにすることである。(ラカン、S10、19 Décembre l962ーー人間の条件と表象代理と対象a )
人がものを見るとき、窓枠 fenêtre が絵に先立っている。窓枠、すなわち表象代理(対象a)が。
絵自身のなかにある表象代理とは、対象aである。ce représentant de la représentation qu'est le tableau en soi, c'est cet objet(a) (ラカンS13, 18 Mai l966)
私は何よりもまず、次のように強調しなくてはならない。すなわち、眼差しは外部にある le regard est au dehors。私は見られている(私は眼差されている je suis regardé)。つまり私は絵である。これが、視野における、主体の場の核心に見出される機能である。視野のなかの最も深い水準において、私を決定づけるものは、眼差しが外部にあることである。…私は写真であり、私は写真に写されている je suis photo, photo-graphié。(ラカン、S11, 11 mars 1964)
主体の眼差しは、常に-既に、知覚された対象自体にシミとして書き込まれている。「対象以上の対象のなか」(=対象a)に。その盲点から対象自体が主体を眼差し返す。(ジジェク、パララックス・ヴュ―、2006)
対象aは、大他者自体の水準において示される穴Ⱥである。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)
我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 (ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexes)
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【対象aの両義性】
①見せかけ(囮、フェティッシュ、ヴェール)としての対象a
②穴(無、空虚、原去勢)としての対象a
セミネール4において、ラカンは「無 rien」に最も近似している 対象a を以って、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに、彼は後年、対象aの中心には、− φ がある au centre de l'objet petit a se trouve le − φ、と言うのである。そして、対象と無 l'objet et le rien があるだけではない。ヴェール le voile もある。したがって、対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche でもある。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993)
対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(⋯⋯)
欲望「と/あるいは」欲動が循環する空虚としての対象a、そしてこの空虚を埋め合わせる魅惑要素としての対象aがある。…人は、魅惑をもたらすアガルマの背後にある「欲望の聖杯 the Grail of desire」、アガルマが覆っている空虚を認めるために、対象a の魔法を解かねばならない(この移行は、ラカンの性別化に式にある、女性の主体のファルスΦからS(Ⱥ)への移行と相同的である)。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016)
以上、恋に陥ったお若い女性のみなさんにとってなによりもまず大切なのは、「星と月は天の穴」あることを早い段階で悟ることです。
「星があんなに沢山」
彼も空を見上げた。空は大きく、星は無数にある。
「あんなに綺麗に光っているのに・・・・・・」
紀子のその声は、世間から祝福される男女関係に身を置けない自分を悔んでいるように、聞えた。
矢添は、皮肉に言う。
「あんなものは、空の穴ぼこだよ」
「・・・・・・」
「月は、もっと大きな穴ぼこだ」(吉行淳之介『星と月は天の穴』)
若い男性のみなさんはどうでもよろしい。勝手にどんどん恋におちいったらよろしい。
女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] (想像的ファルスϕ)と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装性 mascarade féminine と呼ぶことのできるものの彼方 au-delà に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)
とくに神経症の男性諸君は、女性の仮装という囮に騙されまくったらよいのです。騙されたって幸福が訪れる場合もあるでしょう。不幸にもボクは、すぐさま穴に遭遇してしまう倒錯者なので、そういうわけにはなかなかいかないのです。
・神経症者は不安に対して防衛する。まさに「まがいの対象a[(a) postiche]」によって。défendre contre l'angoisse justement dans la mesure où c'est un (a) postiche
・(神経症者の)幻想のなかで機能する対象aは、かれの不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。(ラカン、S10, 05 Décembre 1962)
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愛は、人間が事物を、このうえなく、ありのままには見ない状態である。甘美ならしめ、変貌せしめる力と同様、幻想の力がそこでは絶頂に達する。(ニーチェ『反キリスト者』)
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【対象aは窓枠である】
穴として、対象a は、枠・窓と等価でありうる。それは鏡と反対のものである。対象aは捕獲されない、特に鏡には。長いあいだ鏡に時間を費やしたラカンは、そのように強調している。対象a とは、われわれが目を開くことによって、自身を構築する窓枠なのである。 En tant que trou, l'objet a peut être équivalent au cadre, à la fenêtre, à l'opposé du miroir. L'objet a ne se laisse pas capter, spécialement dans le miroir. Lacan, qui a passé beaucoup de temps avec le miroir, le souligne. Il s'agit plutôt de la fenêtre que nous constituons nous-mêmes, en ouvrant les yeux. (MILLER, J.-A., La Cause du désir, no 94, navarin éditeurs, p. 21)