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2018年9月30日日曜日

人間の条件と表象代理と対象a

あなた方は焦らないようにしたらよろしい。哲学のがらくたに肥やしを与えるものにはまだしばらくの間こと欠かないだろうから。(⋯⋯)

対象a …この対象は、哲学的思惟には欠如しており、そのために自らを位置づけえない。つまり、自らが無意味であることを隠している。Cet objet est celui qui manque à la considération philosophique pour se situer, c'est à dire pour savoir qu'elle n'est rien. (……)

対象a、それはフェティシュfétiche とマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものだ。(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 1966ーー資本の論理(文献列挙)

⋯⋯⋯⋯

ラカンの対象aは、ほとんどの人はいまだ何のことだかまったくわかっていない。たとえばかつてドゥルーズ&ガタリは次のように記した。

ラカンにおける、欲望の賞賛すべき理論は、二つの極をもっているように思われる。ひとつは、欲望機械 machine désirante としての「対象a l'objet petit-a」にかかわる極である。これは、あらゆる欲求や幻想の観念を越え、現実的生産 production réelle によって欲望を規定する。もうひとつは、シニフィアンとしての「大他者grand Autre 」にかかわり、ある種の欠如の観念を再び導入する。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』)
ある純粋な流体 un pur fluide が、自由状態で à l'état libre、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している。この欲望機械 Les machines désirantes ⋯⋯この器官なき充実身体 Le corps plein sans organes ⋯⋯死の本能 Instinct de mort 、これがこの身体の名前である。(同『アンチ・オイディプス』)

この自由な流体としての欲望機械=対象a とはまったくの誤りであるのは、ジジェクをはじめとしたラカン派によってくりかえし批判されてきている。最近では、サモ・トムシックがその評判の高い書『資本家の無意識 The Capitalist Unconscious: Marx and Lacan』 (2015)で、人が去勢(原抑圧)を認めるなら、こういった自由な流体としての機械は、フェティシスト的錯誤にすぎないという意味合いのことを指摘している。

逆に1960年代後半のドゥルーズの「強制された運動の機械(死の本能)[machines à movement forcé (Thanatos)]」という表現が、人間の反復強迫を考える上で、すぐれて正当的解釈である(参照:原抑圧によって「強制された運動の機械」)。

そもそも強制された運動の機械としての死の本能と、欲望機械という自由流体としての死の本能をどうやって仲良くさせようとするのか? ドゥルーズ研究者においては(わたくしの知る限り)いまだ誰もがこの問いにたいして「選択的非注意」のままである。

それなのに、いまだドゥルーズ研究者において欲望機械概念が無批判に使用されている。わたくしの考えでは、どう贔屓目にみても、ああいった連中は、たんなるおバカにすぎない。

対象aは最低限、二種類あるということがある。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 vide をあらわす。(ジジェク, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? , 2016)

たぶんドゥルーズ&ガタリは、幻想的囮/スクリーンとしての対象aしか把握できていない(参照:モノと対象a)。

おそらく標準的な人ーーラカン派プロパではない人ーーはマグリットの「人間の条件」をめぐるラカンの注釈が、対象aの両義性を捉える上で最も理解しやすいのではないだろうか。


【マグリットの「人間の条件」とフロイトの「表象代理」】

部屋の内側から見える窓の前に、私は絵を置いた。その絵は、絵が覆っている風景の部分を正確に表象している。したがって絵のなかの樹木は、その背後、部屋の外側にある樹木を隠している。それは、見る者にとって、絵の内部にある部屋の内側であると同時に、現実の風景のなかの外側である。これが、我々が世界を見る仕方である。我々は己れの外側にある世界を見る。だが同時に、己れ自身のなかにある世界の表象を抱くに過ぎない。(ルネ・マグリット, “Life Lines”)


(René Magritte, La condition humaine, 1933)

窓の枠組みの上に位置づけられた絵 un tableau qui vient se placer dans l'encadrement d'une fenêtre⋯この馬鹿げたテクニック Technique absurde⋯それは人が窓から見えるものを見ない ne pas voir ce qui se voit par la fenêtreようにすることである。(ラカン、S10、19 Décembre l962)

次の図はラカンによるマグリットの絵の図式化である(セミネール10ではなく、セミネール13に現れる)。



マグリットの絵の図式化でありながら、(すくなくとも視野の領域における標準的な)すべての「人間の条件 La condition humaine」の図式化である。

セミネール13にマグリットへの言及が四箇所あるが、以下はそのうちの二箇所をそのまま貼り付ける。


(S13, 30 Mars l966 )



(S13, 25 Mai l966)


「窓枠 fenêtre」がラカンが解釈するフロイトの「表象代理」である。

表象代理 Vorstellungsrepräsentanzは、原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。 (ラカン、セミネール11、1964)


【表象代理と対象a】

表象代理とは、実は対象aでもある。

絵自身のなかにある表象代理とは、対象aである。ce représentant de la représentation qu'est le tableau en soi, c'est cet objet(a) (ラカンS13, 18 Mai l966)
現実の領域は対象a の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず、対象a が現実の領域を枠どっている。 le champ de la réalité ne se soutient que de l'extraction de l'objet a qui lui donne son cadre(Lacan, E554, 1966)

すなわち対象aの締め出しとしての原抑圧である(参照:原抑圧とは現実界のなかに女を置き残すことである)。

ラカンは指摘している、我々の「現実の経験」の一貫性は、現実から対象a を締め出すことにのみ依拠している、と。我々が正常な「現実へのアクセス」をするためには、何かが締め出されなければならない。「原抑圧」されていなければならない。精神病においては、この締め出しはなされていない。対象a は現実のなかに含まれる。この結果は、我々の「現実の感覚」の崩壊、「現実の喪失」である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

マグリットの絵の図式化の図をもう一度眺めてみよう。



人がものを見るとき、窓枠 fenêtre が絵に先立っているのである。窓枠、すなわち表象代理が。

こうしてラカンが「表象代理」は「表象」に先立っているという意味合いが鮮明になる。

世界が表象 représentation(vótellung) になる前に、その代理 représentant (Repräsentanz)ーー私が意味するのは表象代理 le représentant de la représentationであるーーが現れる。Avant que le monde devienne représentation, son représentant, j'entends le représentant de la représentation - émerge. (ラカン, S13, 27 Avril 1966)

次のミレールの対象aをめぐる注釈も、この「人間の条件」としてのメカニズムを簡潔に表現している。

〈現実界〉としての対象を密かに無視することが「ひとかけらの現実」としての現実の安定化の条件だ、とわれわれは理解している。だが、〈対象a〉があるべきところにないなら、〈対象a〉 はどうやって現実に枠をはめるのか。




〈対象a〉は、まさしく現実の領域から除去されることによって、現実に枠にはめるのである。 わたしがこの絵の表面から、絵から網がけになった長方形を取り除くなら、われわれが枠と呼ぶものを獲得する。すなわち穴にとっての枠でありながら、また残りの表面の枠である。こうした枠はどんな窓によっても作ることができる。

〈対象a〉というのはこのような表面の断片であり、それを現実から取り除くことが、現実に枠をはめることになるのである。主体とは、すなわち斜線を引かれた主体とは、…この穴のことである。存在としては、この除去されたかけらにほかならないのである。主体と〈対象a〉は等価である、とはそういうことなのである。(ミレール,(Jacques-Alain Miller,Montré à Prémontré, 1984)



【隠蔽記憶と表象代理】

隠蔽記憶も、実は表象代理である。

スクリーンはたんに現実界を隠蔽するものではない L'écran n'est pas seulement ce qui cache le réel。スクリーンはたしかに現実界を隠蔽している ce qui cache le réel が、同時に現実界の徴でもある(示している indique)。…我々は隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir écran)を扱っているだけではなく、幻想 fantasme と呼ばれる何ものかを扱っている。そしてフロイトが表象représentationと呼んだものではなく、フロイトの表象代理 représentant de la représentation を扱わねばならないのである。(ラカン、S13、18 Mai 1966 )
隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir-écran、Deckerinnerung )はたんに静止画像(スナップショット instantané)ではない。記憶の流れ(歴史 histoire)の中断 interruption である。記憶の流れが凍りつき fige 留まる arrête 瞬間、同時にヴェールの彼岸 au-delà du voile にあるものを追跡する動きを示している。(ラカン、S4 30 Janvier 1957 )


【表象代理とフェティッシュ】

フロイトは表象代理とフェティッシュをほぼ等置している。

病因的固着 pathologische Fixierungen において…最初のフェティッシュの発生 Auftreten des Fetischの記憶の背後に、埋没し忘却された性発達の一時期が存在している。フェティッシュは、「隠蔽記憶 Deckerinnerung 」としてdurch、この時期の記憶を代理表象vertretenし、したがってフェティッシュとは、この記憶の残滓と沈殿物 Rest und Niederschlag である。(フロイト『性欲論三篇』1905年、1920年注)

次の文にはフェティッシュという語は現れないが、参照のために掲げる。

問題となる経験(トラウマ的出来事)に、は、おおむね完全に忘却されている。記憶としてはアクセス不能で、幼児型健忘期 Periode der infantilen Amnesieの範囲内にある。その経験は、「隠蔽記憶 Deckerinnerungen」として知られる、いくつかの分割された記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen …

忘れられた経験を想起する vergessene Erlebnis zu erinnern こと、よりよく言えば、その経験を現実的なもににする real zu machenこと、忘れられたものをふたたび反復経験すること Wiederholung davon von neuem zu erleben…これは、トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma 、あるいは反復強迫 Wiederholungszwang の名の下に要約しうる。…そしてそれは不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge である。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

ラカンの叙述は次の通り。

欲望は…換喩 métonymieの軌道 railsに囚われている。欲望は永遠に何か別のものへに欲望に向かって拡がっていく éternellement tendus vers le désir d'autre chose。したがって、象徴示的連鎖宙吊り suspension de la chaîne signifiante のまさその点における「倒錯的」固着 fixation、そこにおいて隠蔽記憶(スクリーンメモリー le souvenir-écran)は不動化 immobilise され、フェティッシュの魅惑的映像 image fascinante du fétiche が凍りつく statufie。 (ラカン、E518、1957年)

《フロイトが隠蔽記憶 Deck-Erinnerung(スクリーンメモリー)と呼ぶものは、トラウマ的真理を覆うように定められた幻想形成である。》(ジジェク、Less than nothing, 2012)

これは誰も(直接的には)言っている人に出会ったことがないが、《原幻想あるいは原光景 Urphantasien oder Urszenen 》(フロイト『狼男』1918年)もおそらく「表象代理」として捉えうる。


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【私は写真である・私は写真に写されている 】
私は何よりもまず、次のように強調しなくてはならない。すなわち、眼差しは外部にある le regard est au dehors。私は見られている(私は眼差されている je suis regardé)。つまり私は絵である。これが、視野における、主体の場の核心に見出される機能である。視野のなかの最も深い水準において、私を決定づけるものは、眼差しが外部にあることである。…私は写真であり、私は写真に写されている je suis photo, photo-graphié。(ラカン、S11, 11 mars 1964)


この《私は写真である・私は写真に写されている je suis photo, photo-graphié》についてのムラデン・ドラーの注釈(『歪像 anamorphosis』2016年)にも「表象代理」概念が現われる。

写真の動きが、視野の主体に住まっている。視野の領域において、あたかも人は写真に写されている、人が写真を写す主体として自らを分離する以前に。そして人が写真を写され、捕獲され、囚われる仕方が、写真のなかに、斑点・染み・歪みとしての徴を置き残す。これが眼差しの不透明なスクリーンである。

ここで問題になっている事は、表象概念ではない。表象 Vorstellungs とは常に主体にとっての表象である。すなわち彼の前に置かれたもの (vor-stellen 表-象)である。染みは、スクリーンの機能を有しており、眼差しの代役のようなものである。染みは、主体とその欲望の、対象化された外部の「代理」であり、究極的には、言語とシニフィアンの領野における、(フロイトの)悪評高い「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)」と同じ機能をもっている。

染みは、構造的に喪われている表象の代役(喪われているシニフィアンのシニフィアン)である。表象の全領野は染みに準拠している。染みという代用物 ersatz は、構造的に喪われている。にもかかわらず、この染みは他の諸表象と同じ水準にあり、絶えず閉じ・脱境界化し・全体化する表象の領野の不可能性にとっての代役である。表象は「すべてではない」。表象は非全体 pastout である。表象が非全体なのは、主体の刻印のためである。表象自体の領野のなかに、主体にとっての何かが代理されているのである。(ムラデン・ドラ― 2016, Mladen Dolar, Anamorphosis, pdf


ジジェクの表現なら次の通り。

主体の眼差しは、常に-既に、知覚された対象自体にシミとして書き込まれている。「対象以上の対象のなか」(=対象a)に。その盲点から対象自体が主体を眼差し返す。(ジジェク、パララックス・ヴュ―、2006)




・確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau.

・そして私が絵の中の何ものか quelque chose dans le tableau なら、…それは染み tâche としてある。(ラカン、S11, 04 Mars 1964)

《イマージュは対象aを隠蔽している。l'image se cachait le petit (a).》(ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)

※参照:S(Ⱥ)と表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)