自我理想(父の機能)があるとき、集団は団結する。自我理想が空であれば、各自我は二者関係的になって「勝ち組」「負け組」を生み出す(あるいは喧嘩する)。
たとえばノーベル文学賞作家でありかつまたかつてのフェミニストのアイコンだったドリス・レッシングは、その自伝にて次のように言っているそうだ。
つまり欧米でもある時期から父が機能しなくなっている。だから父の機能などもともと稀薄な日本的ないじめが欧米でも流行するようになったという話。
ここで中井久夫の名エッセイから引用しておこう。
ーーツイッター社交界だって、ことあるごとにこれが起こってるんじゃないだろうか?
でも有徴者を探し出して「いじめの対象」にすることは、ひとつだけよいことがある。いじめの対象は、自我理想(父の機能)の代替物になるのだ。
たとえばノーベル文学賞作家でありかつまたかつてのフェミニストのアイコンだったドリス・レッシングは、その自伝にて次のように言っているそうだ。
子供たちは、常にいじめっ子だったし、今後もそれが続くだろう。問題は私たちの子供が悪いということにあるのではそれほどない。問題は大人や教師たちが今ではもはやいじめを取り扱いえないことにある。(Doris May LessingーーThe Collapse of the Function of the Father and its Effect on Gender Roles、2000年 by Paul Verhaegheより孫引き)
つまり欧米でもある時期から父が機能しなくなっている。だから父の機能などもともと稀薄な日本的ないじめが欧米でも流行するようになったという話。
ここで中井久夫の名エッセイから引用しておこう。
非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。(……)差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。⋯⋯⋯
いじめられる者がいかにいじめられるに値するかというPR作戦(……)。些細な身体的特徴や癖からはじまって、いわれのない穢れや美醜や何ということはない行動や一寸した癖が問題になる。これは周囲の差別意識に訴える力がある。何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする。(中井久夫「いじめの政治学」)
ーーツイッター社交界だって、ことあるごとにこれが起こってるんじゃないだろうか?
でも有徴者を探し出して「いじめの対象」にすることは、ひとつだけよいことがある。いじめの対象は、自我理想(父の機能)の代替物になるのだ。
⋯⋯理念(自我理想)がいわゆる消極的な場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存 positive Anhänglichkeit と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結つき Gefühlsbindungen を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
ようするに次のような図になって、集団は「なかよしこよし」になる。
これこそツイッター炎上のたびに発生している現象だよ、すべてがとはいわないでおくが、殆ど全てがとは言っておこう。そしてこの現象は、「共感の共同体」に起因すること大だというのがボクの観点、ってのか、「常識「だろ、これ。
公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)
ーー浅田彰の「共感の共同体」の裏には、「土人の国」日本がある筈だな。彼は最近はいくらか口を慎むようになっているから、日本ツイッター社交界を土人鳥語ムラとまでは言ってないようだけど・・・
ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収)
人々は自由・民主主義を、資本主義から切り離して思想的原理として扱うことはできない。いうまでもないが、「自由」と「自由主義」は違う。後者は、資本主義の市場原理と不可分離である。さらにいえば、自由主義と民主主義もまた別のものである。ナチスの理論家となったカール・シュミットは、それ以前から、民主主義と自由主義は対立する概念だといっている(『現代議会主義の精神史的地位』)。民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。ここでは、個々人は共同体に内属している。したがって、民主主義は全体主義と矛盾しない。ファシズムや共産主義の体制は民主主義的なのである。
それに対して、自由主義は同質的でない個々人に立脚する。それは個人主義であり、その個人が外国人であろうとかまわない。表現の自由と権力の分散がここでは何よりも大切である。議会制は実は自由主義に根ざしている。(柄谷行人「歴史の終焉について」(『終焉をめぐって』所収)
バディウが、《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である》(民主制社会という一かけらの精神もない巨獣)なんて言ってるらしいけどさ。
いまはその話はしないよ、日本には民主主義がお好きな方がいっぱいいらっしゃることだしさ。でも、共感の共同体とか絆の国日本の程度の話はしたっていいさ、この言い方は、すこしはかっこよくきこえるけど、ようするに村八分システムのことだ。
日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)
労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』)
というわけで、全会一致の様相がすこしでもみえたら、なにかおかしいんじゃないかとまず疑ってみる必要がある。かりに後から見返してあれは正当的な全会一致だったと判断するものでさえ、祭最中はしばらく熱狂から身を引くのが胆だな。発酵させなくちゃな。
ほんとうに怖い問題が出てきたときこそ、全会一致ではないことが必要なのだと私は考えます。それは人権を内面化することでもあるのです。個人の独立であり、個人の自由です。日本社会は、ヨーロッパなどと比べると、こうした部分が弱いのだと思います。平等主義はある程度普及しましたが、これからは、個人の独立、少数意見の尊重、「コンセンサスだけが能じゃない」という考え方を徹底する必要があります。さきほど述べたように、日本の民主主義は平等主義的民主主義だけれど、少数意見尊重の個人主義的な自由主義ではない。それがいま、いちばん大きな問題です。(加藤周一、『学ぶこと・思うこと』2003)
で、「おみこしの熱狂と無責任」の先導してる「芸能人」って、ま、土人の先導役にしかみえないことがボクには多いって話なんだけどな・・・
例の芸能人⋯⋯、職業として芸術家になって行って、芸術家にも職人にもなるのでなくて芸能人になる。部分的にか全面的にか、とにかく人間にたいして人間的に責任を取るものとしてのコースを進んで、しかし部分的にも全面的にも責任をおわぬものとなって行く。ここの、今の、芸術家に取っても職人にとっても共通の、しかし芸術家に取って特に大きい共通の危険がある、この危険ななかで、芸術家が職人とともに彼自身を見失う。(中野重治「芸術家の立場」)