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2018年9月28日金曜日

道化師による「おみこしの熱狂と無責任」の先導

批判の対象の善悪は別にして、公衆の面前で悪しざまに罵倒することが許される公的な存在としての犠牲の山羊を見出したら、集団いじめが繰り返されるのが日本鳥語村のきわめて著しい特徴だ。

特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存 positive Anhänglichkeit と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結つきGefühlsbindungen を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

ま、いつもの通りの共感の共同体現象だな。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)
ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収)


そして凡庸な作家たちが、東日本大震災以後とくにきわだって続出するあの不快な現象にまったく無批判のまま、祭りの神輿担ぎを率先するのもを相変わらずだ。

国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収、2005年)

あれらの道化師たちを「作家」と呼んでよいのかどうかは知らないが。

私は人を先導したことはない。むしろ、熱狂が周囲に満ちると、ひとり離れて歩き出す性質だ。(古井由吉『哀原』女人)
よくないのは、「一方に革命があり、もう一方にはファシズムがある」などということを言うということです 。事実、ものごとをいくらか違ったやり方で見ようとすれば、そうしたことを言うことはできません。 ⋯⋯まったくの善人であったりまったくの悪人であったりするような人は一人もいません。でも人々はいつも、あたかもそうした人がいるかのような考え方をとっています 。(ゴダール 『ゴダー ル /映画史Ⅱ』)
人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。

この<あれかこれか>のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』)