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2018年9月28日金曜日

大きなつけひげ装置

鳥語装置で「大きなつけひげ」囀りして大量のリツイートやファヴォされたとき、《私の考察にある微笑が応じ、私の威嚇にある賛意が応じると、私は、ただちに、このような共犯の意思表示は、馬鹿者か、追従者によるものと思い込む》ってないんだろうかな、あの作家たちって。

私は、発表のはじめに、大きなつけひげをつける。しかし、私自身のパロールの波(……)に少しずつひたされて、私はひげが皆の前でぼろぼろとはがれていくのを感ずる。何か《洒落た》考察によって聴衆をほほえませるや否や、何か進歩主義的な常套句で聴衆を安心させるや否や、私はこうした挑発の迎合性を感ずる。私はヒステリー的欲動を遺憾に思う。遅まきながら、人に媚びる言述よりいかめしい言述の方が好ましく思われ、ヒステリー的欲動を元に戻したいと思う(しかし、逆の場合には、ヒステリー的に思えるのは、言述の《厳しさ》の方である)。実際、私の考察にある微笑が応じ、私の威嚇にある賛意が応じると、私は、ただちに、このような共犯の意思表示は、馬鹿者か、追従者によるものと思い込む(私は、今、想像上の過程を描写しているのだ)。反応を求め、つい反応を挑発してしまう私だが、私が警戒心を抱くには、私に反応するだけで十分である。

そして、どのような反応をも冷まし、あるいは、遠ざけるような言述を続けていても、そのために自分が一層正確である(音楽的な意味で)とは感じられない。なぜなら、そのときは、私は自分のパロールの孤独さを自賛し、使命を持った言述(学問、真理、等)というアリバイをそれに与えなければならないからである。(ロラン・バルト「作家・知識人・教師」『テクストの出口』所収)

ないんだったら、もうその時点で作家生命終わってるよ。繊細さの欠如、感性の鈍さ等の「はしたなさ」を露出させといて真の作家商売できるわけない。彼らはせいぜい知識人に過ぎないね。

パロールの側にいる教師に対して、エクリチュールの側にいる言語活動の操作者をすべて作家と呼ぶことにしよう。両者の間に知識人がいる。知識人とは、自分のパロールを活字にし、公表する者である。教師の言語活動と知識人の言語活動の間には、両立しがたい点はほとんどない(両者は、しばしば同一個人の中で共存している)。しかし、作家は孤立し、切り離されている、エクリチュールはパロールが不可能になる(この語は、子供についていうような意味に解してもいい〔つまり、手に負えなくなる〕)所から始まるのだ。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」『テクストの出口』所収)

「まぁ、世界とはその程度のものです」(蓮實)なんだろうけどさ、つまり真の作家なんてものは何十年かに数人しかいないのはわかってるけど、連中はあまりにも厚顔無恥だぜ、《最近の文芸雑誌をパラパラと見ていると、何だか多摩川の二軍選手たちが一軍の試合で主役を張っているような恥ずかしさがあるでしょう。ごく単純に十年早いぞって人が平気で後楽園のマウンドに立っている。》(『闘争のエチカ』蓮實重彦)

作家はいつもシステムの盲点(システムの見えない染み la tache aveugle des systèmes)にあって、漂流 dérive している。それはジョーカー joker であり、マナ manaであり、ゼロ度 degré zéroであり、ブリッジのダミー le mort du bridge である。 (ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)

ま、世界はかわったんだろうがね、1990年前後からことさら。そして1995年あたりからのインターネット普及が追い打ちをかけて、作家商売は、媚態としての販促活動やらないとまったくやってけなくなってるんだろうけどさ。

そのせいもあって書き手としての最も基本的姿勢がとれなくなっちまってんだろうな。

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)

で、卑しいごますり作家の跳梁跋扈って具合になる。

作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」、『ガンジュ侯爵夫人』)

ああ、もう相手するのやめるよ、ツイッター装置の鳥語なんてマジでみるもんじゃない、シュルレアリスト的気分になっちまう。

最も単純なシュルレアリスト的行為は、ピストル片手に街に飛び出し、無差別に群衆を撃ちまくる事だ(アンドレ・ブルトン)

なにはともああれあの作家連中の鳥語は、《すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうる》内容しかもってないね。

(大衆化社会では)ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

恥ずかしさの余り総毛立つ言葉が
多くの拍手を以て流通していると
「ひとり残らずぶっ殺してやりたい」
と思うことないかい? 
たとえば機銃掃射でさ

なかったら幸せものだね

とはいえ、こういう罵詈雑言を容易に書けてしまうブログってのもよくないんだろうな・・・