◆基本教養篇
【男というものと女というものはない】
【男というものと女というものはない】
男性のセクシャリティや女性のセクシャリティはない。一つのセクシャリティしかない。すべての関係はこの一つの性のなかで泳いでいる、同性愛的単独性は防水加工されていない。Il n’y a pas de sexualité masculine ou féminine. Il y a une seule sexualité dans laquelle baignent tous les rapports. La singularité homosexuelle n’est pas étanche. (マグリット・デュラス Marguerite Duras, “The Thing”、1980)
男というものと女というものはない。ただ男性性と女性性の異なった度合い、異なった色合いがあるだけである。There are no Men and Women, only different degrees, different shades of masculinity and femininity.(アレンカ・ジュパンチッチAlenka Zupancic『性とは何か What IS Sex? 』2017)
【人はみな同性を愛する資質をもっている】
精神分析の研究は、同性愛者を特異な一群として他のひとびとから区別しようとする試みとは、はっきりと異なっている。…われわれが見出したのは、すべての人間は同性を対象として選択する能力があり、それは無意識のなかで実際になされていることである。daß alle Menschen der gleichgeschlechtlichen Objektwahl fähig sind und dieselbe auch im Unbewußten vollzogen haben
…対象選択が対象のジェンダーとは関係のないこと Unabhängigkeit der Objektwahl vom Geschlecht des Objektes,、男性の対象でも女性の対象でも同じように自由にできるということ gleich freie Verfügung über männliche und weibliche Objekte、これは幼児期においても、原始的状態や前史的時代にも見出されるものだが、精神分析学にとってはこれこそ根源的なもの Ursprüngliche であり、ここから制約しだいで一方へ向かえば正常型 Seite der normaleが、他方へ向かえば性対象倒錯 Inversionstypus 型がというように、どちらかに発達してゆくものだと思われる。
…精神分析学の意味ではしたがって、男性の関心が女性にだけ向けられる sexuelle Interesse des Mannes für das Weibということは解明を必要とする問題であり、化学的な引力chemische Anziehung がその根底をなしているというような自明のものではない。(フロイト『性欲論三篇』1905年、1915年註)
【人はみな男女混淆、バイセクシャルである】
「男性的 männlich」とか「女性的 weiblich」という概念の内容は通常の見解ではまったく曖昧なところはないように思われているが、学問的にはもっとも混乱しているものの一つであって、すくなくとも三つの方向に分けることができるということは、はっきりさせておく必要がある。
男性的とか女性的とかいうのは、あるときは能動性 Aktivität と受動性 Passivität の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている。
…だが人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋の男性または女性 reine Männlichkeit oder Weiblichkeit は見出されない。個々の人間はすべてどちらかといえば、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆 Vermengung をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との合一をしめしている。(フロイト『性欲論三篇』1905年註)
バイセクシャル Bisexualität の相と親しむようになってから、わたしはこれこそ決定的要因と見なし、バイセクシャルの考慮なしで、男性と女性の性的表出 Sexualäußerungen von Mann und Weibを理解するようになることは殆ど不可能だと考えている。(フロイト『性欲論三篇』1905年本文)
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※付記
【同性愛者(ゲイ)は、主体的ホモエロティックと対象的ホモエロティックの混淆である】
性対象倒錯の問題について一連の重要な観点を、フェレンツィ Ferenczi はその論文(1914)において提出した。フェレンツィは同性愛 Homosexualität のかわりにホモエロティック Homoerotikという言葉を使おうとするのだが、彼は正当にも、同性愛という名のもとに器質的にも心理的にも価値の等しくないさまざまな状態が、ただ同じようにインヴァージョンの症状をもっているからという理由で混同されていることを非難している。
彼は少なくとも、自らを女性であると感じ、またそのように振舞う主体的ホモエロティック者 Subjekthomoerotikers と、まったくの男性であって、ただ女性の対象を同性のそれと取りちがえただけの対象的ホモエロティック者 Objekthomoerotikers との二つの型をきびしく区別することを求めている。彼は前者が、マグヌス・ヒルシュフェルトのいう意味での正規の「性的中間者 sexuelle Zwischenstufe」であることを認め、後者はーーそれほどうまくいっていないがーー強迫神経症者 Zwangsneurotiker だとしている。インヴァージョンの傾向への反抗や心理的影響の可能性も対象的ホモエロティック者の場合だけに観察される、というのである。
この二つの型を認めたうえで、さらにわれわれは、多くの人物の場合には、ある程度の主体的ホモエロティック者と対象的ホモエロティック者の一部が混淆している daß bei vielen Personen ein Maß von Subjekthomoerotik mit einem Anteil von Objekthomoerotik vermengt gefunden wird のが見られる、ということを付言する必要がある。(フロイト『性欲論三篇』1920年註)
【エロスとタナトスの欲動混淆】
「エロス・融合・同一化・ヒステリー・女性性」と「タナトス・分離・孤立化(独立化)・強迫神経症・男性性」には、明白なつながりがある。…だが事態はいっそう複雑である。ジェンダー差異は二次的な要素であり、二項形式では解釈されるべきではないのだ。エロスとタナトスが混淆しているように(フロイトの「欲動混淆 Triebmischung」概念)、男と女は常に混淆している。両性の研究において無視されているのは、この混淆の特異性である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe 「二項議論の誤謬Phallacies of binary reasoning」、2004年)