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2018年9月28日金曜日

ウエブというファシズム装置

Xについて何か発言すれば、意見を言えば、自分はちゃんとXを意識している、Xについて考えている、他者に向かってそう言いたい人が、ウエブのおかげで増えているのかと思う。行動はしなくても、コトバにすれば免責される、そんな気持ちがひそんでるんじゃないかな。(谷川俊太郎、2015年12月24日


あらゆる言葉のパフォーマンスとしての言語は、反動的でもなければ、進歩主義的でもない。それはたんにファシストなのだ。なぜなら、ファシズムとは、なにかを言うことを妨げるものではなく、なにかを言わざるを得なく強いるものだからである。(ロラン・バルト『文学の記号学』)


わたしが同情心の持ち主たちを非難するのは、彼らが、恥じらいの気持、畏敬の念、自他の間に存する距離を忘れぬ心づかいというものを、とかく失いがちであり、同情がたちまち賤民のにおいを放って、不作法と見分けがつかなくなるからである。(ニーチェ『この人を見よ』)




・公衆の面前で悪しざまに罵倒することができる数少ない公的存在として、世間が○○を選んでしまったのである。…○○はいまや、反動的な非国民として、全会一致の敵意を全身でうけとめざるをえなくなっている。

・○○を嘲笑してみせることで、 自分の立場を相対的に高めようとする凡庸な精神が作用している。 それがそっくりわれわれの精神と共鳴しているかもしれぬその凡庸さが、改めて痛ましく思われる。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

生産、革新、成長、アウトプット、プレゼンテーション等、ーーこれらはすべて「新自由主義的非イデオロギー」の語彙群である。作家たちも、資本の論理という不可視の「システム的暴力」が奏でる音楽に、嬉々として踊っているのが改めて痛ましく思われる。


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作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」、『ガンジュ侯爵夫人』)