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2018年10月18日木曜日

ナイーヴな戦争機械概念のお釈迦

お釈迦シリーズ第二弾である。とはいえ基本的には第一弾「ナイーヴなマルチチュード概念のお釈迦」の補足であり、引用も重なるところが多い。

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【潜在的リアルとしての戦争機械】

この戦争機械は遊牧民によって現実化されたにもかかわらず、純粋「イデア」の概念は維持しなければならない。むしろ遊牧民こそが一つの抽象、一つの「イデア」、すなわちリアルでありながら現勢的ではない何かであり続けている。

il faut maintenir le concept d'Idée pure, quoique cette machine de guerre ait été réalisée par les nomades. Mais c'est plutôt les nomades qui restent une abstraction, une Idée, quelque chose de réel et non actuel, pour plusieurs raisons (ドゥルーズ &ガタリ『千のプラトー』「遊牧論あるいは戦争機械』1980年)

《リアルでありながら現勢的ではない何か quelque chose de réel et non actuel》→

《現勢的ではないリアルなもの、抽象的ではないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits 》(プルースト 『見出された時』)――このイデア的なリアルなもの、この潜在的なものが本質である Ce réel idéal, ce virtuel, c'est l'essence。(ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ』1970年)
潜在的なもの virtuel は、リアルなもの réel には対立しない。ただ現勢的なもの actuel に対立するだけである。潜在的なものは、潜在的なものであるかぎりにおいて、或る充溢したリアリティ réalité を保持している。潜在的なものについて、まさにプルーストが共鳴の諸状態について述定していたのと同じことを述定しなければならない。すなわち、《現勢的でないリアルなもの Réels sans être actuels、抽象的でないイデア的なもの idéaux sans être abstraits》(プルースト)ということ、そして、虚構でない象徴的なもの symboliques sans être fictifs である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)


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【世界的規模の戦争機械(資本機械)の猖獗】

問題は、戦争機械がいかに戦争を現実化するかということよりも、国家装置がいかに戦争を所有(盗用)するかということである La question est donc moins celle de la réalisation de la guerre que de l'appropriation de la machine de guerre. C'est en même temps que l'appareil d'Etat s’approprie la machine de guerre。

…国家戦争を総力戦にする要因は資本主義と密接に関係している。…les facteurs qui font de la guerre d'Etat une guerre totale sont étroitement liés au capitalisme

現在の状況は絶望的である。世界的規模の戦争機械がまるでS Fのようにますます強力に構成されている。Sans doute la situation actuelle est-elle désespérante. On a vu la machine de guerre mondiale se constituer de plus en plus fort, comme dans un récit de science-fiction ;(ドゥルーズ &ガタリ『千のプラトー』「遊牧論あるいは戦争機械』1980年)
・資本とは資本家の器官なき身体である。Le capital est bien le corps sans organes du capitaliste,

・器官なき充実身体…死の本能、これがこの身体の名前である。Le corps plein sans organes…nstinct de mort, tel est son nom, (ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』1972年)

ーーここで「世界的規模の戦争機械(資本機械)の猖獗」としたが、それはドゥルーズ&ガタリの本意とは異なるという批判が当然あるだろう。その判断はどうぞお好きなように。

より根源的には 《強制された運動の機械(死の本能)[machines à movement forcé (Thanatos) 》のドゥルーズを取るか、《自由に流体する「欲望機械 Les machines désirantes」としての「死の本能 Instinct de mort」》のドゥルーズを取るかにかかわるが、それはこの際割愛する。前者はほとんど無視されており議論しても始まらない(参照)。

とはいえ剰余価値にかかわって「自動的主体 ein automatisches Subjekt」や「自動的フェティッシュautomatische Fetisch」と記したマルクスにおいて、資本の自由な流動などあるわけがないのである。資本の強制された運動の機械しかない。

利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(⋯⋯)

ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物件化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻))

最晩年のドゥルーズが自らの最後の著作と予定した『マルクスの偉大さ La grandeur de Marx 』が宣言どおりに書かれていたら、経済音痴のドゥルーズ派が跳梁跋扈しなくてすんだのだが・・・

M-M' (G─G′ )において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation 》である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016, PDF)

なにはともあれ、ここでの記述は「ユダヤ系ドイツ人」で1934年に米国に「亡命」してコロンビア大学で教鞭を取っていたフランクフルト学派の代表であるホルクハイマーの次の姿勢によって記されている。

資本主義について批判的に語りたくない者はファシズムについても沈黙すべきである。Wer aber vom Kapitalismus nicht reden will, sollte auch vom Faschismus schweigen."(マックス・ホルクハイマー Max Horkheimer「ユダヤ人とヨーロッパ Die Juden und Europa.」1939年)

ファシズムやマイノリティ差別だけではない。現在、資本主義について批判的に語りたくない者は、「思想全般」についても沈黙すべきである、と極論を言い放っておこう。
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【「機械」とは現在の支配的(非)イデオロギー】

ドゥルーズとガタリによる「機械」概念は、たんに「転覆的 subversive」なものであるどころか、現在の資本主義の(軍事的・経済的・イデオロギー的)動作モードに合致する。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク 『毛沢東、実践と矛盾』2007年)
カーニバル的宙吊りの論理は、伝統的階級社会に限られる。資本主義の十全な展開に伴って、今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年)
欲動は、より根本的にかつ体系の水準で、資本主義に固有のものである。すなわち、欲動は全ての資本家機械を駆り立てる。それは非人格的な強迫であり、膨張されてゆく自己再生産の絶え間ない循環運動である。我々が欲動のモードに突入するのは、資本としての貨幣の循環が「絶えず更新される運動内部でのみ発生する価値の拡張のために、それ自体目的になり瞬間である。(マルクス)(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006)


【資本機械への対抗としての帝国の原理(父の機能)】

前回記したことを繰返そう。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)

このラカンの言明の「政治経済的」含意は、「帝国」の復活は御免蒙るが、「帝国の原理」(父の機能)がなければ、人間には「コモン comunis」が得られない、ということ。

ラカンは《父の蒸発 évaporation du père》 (「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)を学園紛争以降、強調しており、これが「大他者の言説の時代(父の名の時代)から資本の言説の時代への移行の「文化共同体心理学」における意味合いである(参照:資本の言説(簡潔版))。

柄谷行人やジジェクの考え方においても、とくに冷戦後「資本機械という潜在的リアル」が前面に出ているという認識。そしてこの「市場原理」あるいは「資本の論理」の時代に、それへの対抗手段として戦争機械を言うのはナイーヴ過ぎるという観点を繰返して主張している。

帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)

もちろん国家自体、「ヒエラルキー的戦争機械」であり(参照:国家は収奪機関である) 、かつての時代であれば、その国家への対抗ガンとして「非ヒエラルキー的戦争機械」は機能した。だが冷戦終了後は、国家自体が非ヒエラルキー的戦争機械の奴隷になっているという認識を柄谷もジジェクももっており、その時にむしろ必要なのはヒエラルキー的な歯止め装置だという考え方。


それは端的に、柄谷の「世界史の構造のモデル」が示している。



英国パパあるいは米国パパの時代には、まがりなりにも自由主義的な政策があった。だが1990年以降の新自由主義時代はパパ不在の時代であり、弱肉強食の帝国主義的時代となった。この時、むしろ必要なのは「帝国の原理」、あるいは「父の機能」だという考え方。

そして柄谷行人における帝国の原理とは「世界共和国」統整的理念である。


柄谷行人「交換様式論入門」2017,pdf


柄谷行人とジジェクによる基本的認識を、ラカンのボロメオ結びモデルで示せば次の通り。



真の「非全体 pastout」は、有限・分散・偶然・雑種・マルチチュード等における「否定弁証法」プロジェクトに付きものの体系性の放棄を探し求めることではない。そうではなく、外的限界の不在のなかで、外的基準にかんする諸要素の構築/有効化を可能にしてくれることである。(ジジェク、(LESS THAN NOTHING, 2012)

ここでの非全体は、現実界的非一貫性である。あるいは「無根拠で非対称的な交換関係」参照

マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年)




人間は「主人」(父)が必要である。というのは、我々は自らの自由に直接的にはアクセスしえないから。このアクセスを獲得するために、我々は外部から抑えられなくてはならない。なぜなら我々の「自然な状態」は、「自力で行動できないヘドニズム inert hedonism」のひとつであり、バディウが呼ぶところの《人間という動物 l’animal humain》であるから。

ここでの底に横たわるパラドクスは、我々は「主人なき自由な個人」として生活すればするほど、実質的には、既存の枠組に囚われて、いっそう不自由になることである。我々は「主人」によって、自由のなかに押し込まれ/動かされなければならない。(ジジェク、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016)

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というわけだが、もちろん人はこの立場をとらなくてもよろしい。お好きなように。

なおかつ以上に記したのは、あくまで政治経済的相における戦争機械批判(吟味)のみである。