このブログを検索

2018年12月26日水曜日

あれなくしてエロというものはあるんだろうか?

男女の関係が深くなると、自分の中の女性が目覚めてきます。女と向かい合うと、向こうが男で、こちらの前世は女として関係があったという感じが出てくるのです。それなくして、色気というのは生まれるものでしょうか。(古井由吉『人生の色気』)


第402回 スーパーコンパニオンよりも 代々木忠(2018年10月05日)

 女がセックスで10感じるとしたら男は1くらいしか感じないというのが喧伝されてきた。まぁ10倍以外にも、数倍から数百倍までかなり幅はあるものの、要は女の快感は男の比じゃないというわけである。

 しかし、僕はこれまで現場で男が女と同じくらい感じ、失神までするのを何人も目にしてきた。加藤鷹、日比野達郎、チョコボール向井、平本一穂、青木達也……。女と同等の快感を体験した彼らに共通しているのは、そのとき「受け身だった」という一点である。

 いま男たちはセックスに自信がないとか、興味がないという。恋愛も難しく、セックスにまで至るのは至難の業だとも。夫婦もセックスレスがもう当たり前の時代だ。さんざん書いてきたことだが、とりわけ男はつねに考えて考えて、思考主導で生きざるを得ないという現実がある。だから、恋愛もできない。

 セックスでも男が女を満足させなければならない、そうじゃないと男としてカッコ悪いという刷り込みがある。だから、そのプレッシャーに腰が引ける。本当はそうじゃないのに。もっと言えば「かくあらねばならぬ」という思考が作り出した既成概念を捨てて、感じるまま女の前でヨガッてみれば、もう虚勢を張る必要もなく、本当の自分のままラクに生きられるのに……。

 老子の言葉に「跂者不立」というのがある。「跂(つまだ)つ」とは「爪先立つ」の意。つまり、自分をよく見せようと背伸びして爪先で立とうとすれば、かえって足元が定まらないという意味だ。こんな生き方は“道”から見れば余計なことであり、「無為自然」がいい――と老子は言う。これはそのままセックスにも当てはまる。なぜならば、セックスもまた自然に属しているからである。

 女はヨガる男をけっして見下したりはしない。それどころか、これは余談だが、今回の撮影で卓と玉木が面接に来た女の子から攻められているとき、彼らが声を出すたびに後ろにいるエキストラたちから吐息とも溜め息ともつかぬ「ああ~」という声が聞こえてきた。男がヨガッていると、思わず声が出てしまうくらい彼女たちも共鳴していたのである。




◆加藤鷹『イケない女神たちーーAV男優のセックスノート』1994年

ボクは四年前、代々木監督の『いんらんパフォーマンス 密教昇天の極意』という作品で、イクということをはじめて体験した。この作品は、男のオーガズムを追求するという意図でつくられたものだった。

ボクと相手役の栗原早紀は、いつにも増して、自分の中へ中へと意識を下ろしていった。努力することを放棄して、期待することを放棄して、とにかくあらゆる意識を放棄して、同じ殻の中にいることを実感として感じながら求めあった。ほどなくして、意識が性器からふっと離れたとき......。そこからの記憶がない。何をどうして、自分がどうなっていたのかがまったくわからなくなってしまった。ただ、たとえようのない快感、幸福感に包 れて浮かんでいた。射精とはまったく違う感覚。それとは較べようもないほどの満足感と充実感で身体が満たされているのを実感した。性別をこえた快感。根拠はないのだが、そう実感できた。

…栗原早紀がこういった。「鷹、おぼえてる? わたしがおちんちんさわろうとしたら『さわらないで。そのまま抱きしめて』っていったのよ」まるで記憶になかった。ボクの性器は、これ以上は小さくなれないほどに縮み上がっていて、射精もしていなかった。身体中に鳥肌がビッシリと立っていた。気がつくと涙もこぼれていた。男の幸福感はかならずしも射精にあるわけではなかった。性器を使わなくても達するセックスがある。予想していたこととはいえ、ショックだった。と同時に、ことばにあらわすことができないほどの至福のときに包まれてもいた。

⋯⋯⋯⋯

さて、代々木忠の言う《女と同等の快感を体験した彼らに共通しているのは、そのとき「受け身だった」という一点である》をまずはめぐる。

マゾヒズムは三つの形態がある。…性感的マゾヒズム、女性的マゾヒズム、道徳的マゾヒズム erogenen, femininen und moralischen である。第一の性感的マゾヒズム、すなわち苦痛のなかの快 Schmerzlustは、他の二つのマゾヒズムの根である。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』Das ökonomische Problem des Masochismus 、1924年)

この「苦痛のなかの快 Schmerzlust」がラカンの「享楽」概念の最も代表的な意味合いのひとつである。

私が享楽 jouissance と呼ぶものーー身体が己自身を経験するという意味においてーーその享楽は、つねに緊張tension・強制 forçage・消費 dépense の審級、搾取 exploit とさえいえる審級にある。疑いもなく享楽があるのは、苦痛が現れ apparaître la douleur 始める水準である。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ有機体の全次元ーー苦痛の水準を外してしまえば、隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。(ラカン、Psychanalyse et medecine、16 février 1966)


(PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999)

私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel(ラカン、S23, 10 Février 1976)
(母子関係において幼児は)受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」をとらされることに対する反抗がある…私は、この「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の心的生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

《フロイトが気づいていなかったことは、最も避けられることはまた、最も欲望されるということである。不安の彼岸には、受動的ポジションへの欲望がある。他の人物、他のモノに服従する欲望である。そのなかに消滅する欲望……。》(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe 、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、 1998年)


ーー上の図でバーハウは、フロイトの「受動的立場」とラカンの「女性の享楽」を等価なものと置いている。女性の享楽とは女性的マゾヒズムあるいは女性の受動性のことだという想定だ。これですべてだとは言わないが、たぶん大半の理解はこれでいける。身体の欲動蠢動(欲動興奮)になすがままになるのも受動性である。これこそまさに反復強迫=女性の享楽である。




心的無意識のうちには、欲動蠢動(欲動興奮 Triebregungen )から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)

※Triebregungen という語のフロイトの使い方の他のサンプルは、「原抑圧・固着文献」を見よ。

メカニズムとしては「異物」が肝腎。それは、「内界にある自我の異郷 ichfremde」で集中的に記した。



リビドー固着(欲動固着)と異物の関係とは、より詳しく記せば次のような形にある。



欲動固着は欲動興奮を最初に飼い馴らす母による「身体の上への刻印」。これは誰もが知っていることだ。幼児の身体的な興奮をなだめる鞍を母が置くことは。

だがすべての欲動興奮が飼い馴らされるというわけにはいかない。固着の残滓がエスのなかに居残ること、これがサントーム=女性の享楽にとって決定的である。

この残存物=異物によって、トラウマへの固着と同じメカニズムの反復強迫が起こる。

リビドーのトラウマへの固着


そして、大きなファルスや小さなファルスというのは、欲動固着をさらにカバーすること。




最も簡単にいえば次のことだ。

「父の名」は「母の欲望」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽(=女性の享楽)は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013)

ーーこれは父の名≒父の機能だけの話だが、フェティッシュも同様。


繰り返せば、エスの奔馬の完全な飼い馴らしは不可能で、かならずリビドー固着の残存現象(異物)がある。それが、ラカンの対象aだ(参照:ラカンの対象aとフロイトの残存現象)。

⋯⋯⋯⋯

閑話休題(あだしごとはさておき)。

荒木の撮った石倭裕子さんってのはじつにすばらしいな。



ネットには小さな画像しか落ちていないのだが、とくに左の写真の表情ってのは、めったに出会えない。切なくなるね。彼女は《悲しく、一途で、おびえた目 yeux tristes, jaloux, peureuxでレンズを見ている regarde l'objectif。なんと不憫で切なく思慮深い様子であろう quelle pensivité pitoyable, déchirante! だが実は何も見ていないのだ il ne regarde rien。そのまなざしは愛と恐れを心のうちに引きとめているのである il retient vers le dedans son amour et sa peur。》(バルト『明るい部屋』)

荒木さんは私の中に潜んでいるその『女』に声をかけてくれた。私もそれを出すために荒木さんが必要だったんです。(石倭裕子ーー桐山秀樹『荒木経惟の「物語」』1998年)




ーー昔からよく言われるが、やっぱり赤い耳が肝腎なんだろうな、ほかは演技できるって言ったのは吉行淳之介じゃなかっただろうか。

で、なんの話だっけ・・・

大他者の享楽の対象になること être l'objet d'une jouissance de l'Autre、すなわち享楽への意志 volonté de jouissance が、マゾヒスト masochiste の幻想 fantasmeである。(ラカン、S10, 6 Mars 1963)
他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的である⋯⋯que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste. (ラカン、S10, 16 janvier 1963)
倒錯 perversion とは…大他者の享楽の道具 instrument de la jouissance de l'Autre になることである。(ラカン、E823、1960年)
倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16, 26 Mars 1969)




倒錯者 inverti たちは、女性に属していないというだけのことで、じつは自分のなかに、自分が使えない女性の胚珠 embryon をもっている。(プルースト「ソドムとゴモラ」)



よく希っていれば、望みはかなうねえ! それもまだ僕たちが若さを失ってしまわないうちに! (大江健三郎「大いなる日に」第一章『燃え上がる緑の木』第三部)
僕ハ、ズット、コノヨウナ性交ヲ夢見テイタヨ。コレマデズット、ズット…… 生レル前カラ、ズット、ダッカカモ知レナイホド。(大江健三郎「大いなる日に」第二章)




娘ノ扮装ヲサセテ若衆ニ鶏姦サレルコト……、アルイハ娘ニ張形ヲツケサセテ鶏姦サレルコト (大江健三郎「大いなる日に」第五章)

大江が書いていること以上に男にとって肝腎なのは、「嫐られる」である。「嬲る」ではないのである。

⋯⋯⋯⋯

オカマというのはよがりますよね。枕カバーがベットリ濡れるくらい涎を流したりするでしょう。するとやっているうちに、こっち側になりたいという気になってくる。だからオカマを抱いちゃうと、大体一割くらいのケースで、オカマになりますね。(野坂昭如ーー岩井志麻子『猥談』より)

きみたちもはやいところやっとかないとダメだよ、ーー《それなくして、エロというのは生まれるものでしょうか?》

フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。⋯⋯⋯結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme,(Lacan, S23, 11 Mai 1976)

上にも図を貼り付けたように、女性の享楽=自閉症的享楽というのを前回みたところだが、女性の享楽は多形倒錯でもあるんだな。

フロイトの多形倒錯 perverse polymorpheとは、自らの身体を自体性愛的 auto-érotiqueに享楽することである。…この多形倒錯は、私が「自閉的症状 symptôme autiste」と呼ぶものの最初のモデルである。自閉的症状とは、他のパートナーを通さない身体の享楽 jouir du corps を示し、人は性感帯の興奮のみに頼る。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )

さらに言えば、人はひとつの性だけ愛するなんていう究極のヘンタイにならないようにしなくちゃな。

問いは、人が倒錯者になるのはなぜか? ではないのだ。そうではなく「多形倒錯 polymorphe Perversität」として生まれたはずの我々は皆、なぜ倒錯者のままではないのか、である。

ラカンの答えは《男の規範 norme-mâle》のせいだ。これは「悪い規範 norme mal」のことでもある。

晩年ゲイ男に惚れたデュラスはこう言っている。

男性のセクシャリティや女性のセクシャリティはない。一つのセクシャリティしかない。すべての関係はこの一つの性のなかで泳いでいる、同性愛的単独性が防水加工されてるわけはない。Il n’y a pas de sexualité masculine ou féminine. Il y a une seule sexualité dans laquelle baignent tous les rapports. La singularité homosexuelle n’est pas étanche. (デュラスMarguerite Duras: «The Thing» (entretien au «Gai Pied», 1980)

(Yann Andréa and Marguerite Duras)


もし男性諸君が、男に惚れるのが抵抗があるなら、まずレズ女に惚れてみることだな。そうすれば世界は違ってみえてくるよ、

男というものと女というものはない。ただ男性性と女性性の異なった度合い、異なった色合いがあるだけである。There are no Men and Women, only different degrees, different shades of masculinity and femininity.(アレンカ・ジュパンチッチAlenka Zupancic『性とは何か What IS Sex? 』2017)
人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋の男性または女性 reine Männlichkeit oder Weiblichkeit は見出されない。個々の人間はすべてどちらかといえば、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆 Vermengung をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との合一をしめしている。(フロイト『性欲論三篇』1905年註)
バイセクシャル Bisexualität の相と親しむようになってから、わたしはこれこそ決定的要因と見なし、バイセクシャルの考慮なしで、男性と女性の性的表出 Sexualäußerungen von Mann und Weibを理解するようになることは殆ど不可能だと考えている。(フロイト『性欲論三篇』1905年本文)
…この意味で、すべての人間はバイセクシャルである。人間のリビドーは顕在的であれ潜在的であれ、男女両方の性対象のあいだに分配されているのである。alle Menschen in diesem Sinne bisexuell sind, ihre Libido entweder in manifester oder in latenter Weise auf Objekte beider Geschlechter verteilen.(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)