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2019年2月20日水曜日

身体の記憶

バイヨンヌ、バイヨンヌ、完璧な町。河に沿い、響きゆたかな周囲(ムズロール、マラック、ラシュパイエ、ベーリス)と空気の通じあっている町。そして、それにもかかわらず閉じた町、小説的な町。(……)幼い頃の最初の想像界。スペクタクルとしてのいなか、匂としての“歴史”、話しかたとしてのブルジョワジー。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)
過去のうちで、私をいちばん魅惑するのは自分の幼年期である。眺めていても、消えてしまった時間への後悔を感じさせないのは幼年期だけだ。なぜなら、私がそこに見いだすものは非可逆性ではなく、還元不可能性だから。すなわち、まだ発作的にときおり私の中に存在を示すすべてのものだからである。子どもの中に、あらわに私が読み取るもの、それは、私自身の黒い裏面、倦怠、傷つきやすさ、さまざまの(さいわいに複数の)絶望への素質、不幸にもいっさいの表現を断たれた内面的動揺。(『彼自身』)





ロラン・バルトには、わたくしがお気に入りの「身体の記憶」という表現がある。

匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだ c'est d'abord le percevoir selon le corps et la mémoire, selon la mémoire du corps。(ロラン・バルト「南西部の光」)

「身体の記憶 la mémoire du corps」、これこそプルーストの無意志的記憶、レミニサンスである。それは心的装置よる「想起」ではない。

フロイトはこの身体の記憶、無意志的記憶に相当するものをシステム無意識と呼んだ。

欲動蠢動(欲動興奮Triebregungen)は、(力動的無意識ではなく)すべてシステム無意識 unbewußten Systemen にかかわる。ゆえに、その欲動蠢動が一次過程に従うといっても別段、事新しくない。また、一次過程をブロイアーの「自由に運動する備給(カセクシス)」frei beweglichen Besetzung と等価とし、二次過程を「拘束された備給」あるいは「硬直性の備給」gebundenen oder tonischen Besetzung と等価とするのも容易である。

その場合、一次過程に従って到来する欲動興奮 Erregung der Triebe を拘束することは、心的装置のより高次の諸層の課題だということになる。

この拘束の失敗は、外傷性神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。すなわち拘束が遂行されたあとになってはじめて、快原理(およびそれが修正されて生じる現実原理)の支配がさまたげられずに成就されうる。

しかしそれまでは、興奮を圧服 bewaeltigenあるいは拘束 bindenするという、心的装置の(快原理とは)別の課題が立ちはだかっていることになり、この課題はたしかに快原理と対立しているわけではないが、快原則から独立しており、部分的には快原理を無視することもありうる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)


いま見たように「身体の記憶」とは、快原理内の記憶ではなく快原理外の記憶であり、外傷性記憶である。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス réminiscence と呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

この記憶は反復強迫するのである。

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
現実界は、(心的装置に)同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )

この現実界の反復強迫こそ、死の欲動である。死の欲動とは「死」そのものとは基本的には関係がない。

プラトンの想起を初めとして、身体の記憶としてのレミニサンスは、哲学的言説が現在にいたるまでひどく苦手な記憶である。

真理における唯一の問い、フロイトによって名付けられたもの、「死の本能 instinct de mort」、「享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance」 …全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(ラカン、S13, 08 Juin 1966)

「享楽という原マゾヒズム」とは、欲動のなすがままになること(受動的な状態)にかかわり、この表現は能動的な記憶としての想起に対する受動的な記憶、強制された想起(無意志的記憶)に直接的にかかわる。

『見出された時』のライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。

(……)われわれは、無理に contraints、強制されて forcés、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともの、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章)

こうして、《強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)》(『プルーストとシーニュ』)、あるいは《強制された運動 le mouvement forcé ⋯⋯それはタナトスあるいは反復強迫であるc'est Thanatos ou la « compulsion»》(ドゥルーズ『意味の論理学』)という表現が生まれる。

「想起/レミニサンス」、あるいは「心的装置内の記憶/心的装置外の記憶(身体の記憶)」とは、ドゥルーズ=プルーストの表現なら、「理知の記憶/魂に刻まれた記憶」でもある。

プラトンの想起の出発点は、相互に捉えられ、その生成と、変化と、不安定な対立と、《相互融合 fusion mutuelle》とにおいて把握された性質と、感覚的関係の中にある(たとえば、或る点では不平等な平等、小さくなる大きなもの、軽いものと不可分な重いものなど)。しかしこの質的生成は、どうにかこうにか、またその力にしたがってイデアを模倣する物の状態、世界の状態を示している。そして、想起の到達点としてのイデアは、安定したエッセンスであり、対立したものを分離し、全体の中に正しい尺度(平等でしかない尺度)を導入する物それ自体である。イデアが、たとえあとから見出される場合でさえも、常に《前に avant》あり、常に前提とされているのはそのためである。出発点は、到達点をすでに模倣できるという能力によってのみ価値がある。その結果、いくつかの能力を分断して用いることは、それらの能力全体を同じひとつのロゴスに統一する弁証法への《前奏 prélude》にほかならない。それは円弧の部分を作ることが弧全体の回転を準備するのに似ている。弁証法に対する批判の全部を要約してプルーストが言うように、理知は常に先にくるのである l'Intelligence vient toujours avant。

『失われた時を求めて』においては、これとは全く同じではない。質的生成、相互融合、《不安定な対立 instable opposition》は、魂の状態の中に刻まれた inscrits dans un état d'âme のであって、もはや、物や世界の状態の中に記されるのではない。夕陽の斜めの光線・匂い・味・空気の流れ・束の間の質的複合体は、それらが入り込んで行く《主観的側面 côté subjectif》においてのみ価値を持つはずである。それが、レミニサンス réminiscence が介入してくる理由である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチロゴス」の章)

ドゥルーズは、《無意志的記憶 la mémoire involontaire の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない》(『プルーストとシーニュ』)というが、その理由は、上にみたように、無意識的記憶は外傷性記憶だからである。




彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのないレミニサンス réminiscences confuses にふけっていた…戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした。「あなたはすきま風がお好きなようですね」と彼らは私にいった。(プルースト「ソドムとゴモラ」)


⋯⋯⋯⋯

以下、バルトの「南西部の光」を、先ほど引用した文をふくめてその前段をいくらか長く引用する。

ある兆で私は自分が家の敷居をまたいで、幼児期の郷里に入ったことを知らされる。それは、道の脇の松林、家の中庭に立つ棕櫚の木、地面に影をおとして人間の顔のような表情を映し出す独特の雲の高さ。そこから南西部の大いなる光が始まる。高貴でありながら同時に繊細で、決してくすんだり淀んだりしない光(太陽が照っていないときでさえ)。それはいわば空間をなす光で、事物に独特の色あいを与える(もう一つの南部はそうだが)というより、この地方をすぐれて住み心地のよいものにするところに特徴がある。明るい光だ、それ以外にいいようがない。その光はこの土地でいちばん季節のいい秋にみるべきだ(私はほとんど「聴くべきだ」といいたい。それほど音楽的な光なのだ)。液体のようで、輝きがあり、心を引き裂くような光、というのも、それは一年の最後の美しい光だから。
⋯⋯私の身体というのは、歴史がかたちづくった私の幼児期なのだ mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite。その歴史は私に田舎の、南部の、ブルジョワ的な青春を与えてくれた。私にとって、この三つの要素は区別できない。ブルジョワ的な生活とは私にとって地方であり、地方とはバイヨンヌである。田舎(私の幼児期)とは、きまって遠出や訪問や話の網を織りなすバイヨンヌ近郊のことだ。

こうして、記憶が形成される年頃に、私はその《重大な現実 grandes réalités》から、それらが私にもたらした感覚のみを汲みとっていった。匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、現実のうち、いわば無責任なもの、後に失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないものばかり(私がパリで過ごした幼年期はまったく異なるものだった。金銭的困難がつきまとい、いってみれば、貧しさの厳しい抽象性をおびていて、その頃のパリの《印象》はあまり残っていない)。

私が、記憶をとおして私の中で屈折した通りの南西部について語るのは、「感じる通りに表現するのではなく、記憶している通りに表現すべきである」というジュベールの言葉を信じているからだ。
⋯⋯⋯たとえば、私の記憶の中で、ニーヴ河とアドゥール河にはさまれたプチ=バイヨンヌと呼ばれる古い一角の匂いほど重要なものはない。小さな商店の品物がすべていり混じって、独特の香りを作り出していた。年老いたバスク人たちが編むサンダルの底の縄(ここでは《エスパドリーユ》という言葉は使わない)、チョコレート、スペインの油、暗い店舗や細い道のこもった空気、市立図書館の本の古い紙。これらすべては、今はなくなってしまった古い商いの化学式のように機能していた(もっとも、この一角はまだ昔の魅力の一端をとどめてはいるが)、あるいはもっと正確にいうと、今現在その消失の化学式として機能している。匂いを通じて私が感じとるもの、それは消費の一形態の変移そのものである。すなわち、サンダルは(悲しいことにゴム底になってしまって)もう職人仕事ではなくなったし、チョコレートと油は郊外のスーパーで買い求められる。匂いは消えてしまった。あたかも逆説的に、都市汚染の進行が家庭の香りを追い出してしまったかのように。あたかも《清潔さ》が汚染の陰湿な一形態であるかのように。




⋯⋯⋯私は子供のころ、バイヨンヌのブルジョワジーの家庭と数多く知り合いになった(当時のバイヨンヌはどこかバルザック的な雰囲気があった)。彼らの習慣、しきたり、会話、生活様式も知ることができた。この自由主義的ブルジョワジーは偏見こしありあまるほどもっていたが、資本の方はあまりなかった。この階級のイデオロギー(まったく反動的な)とその経済的ステータス(ときに悲惨な)とのあいだにんは一種の不均衡があったのだ。社会的、政治的分析は粗い濾器のように機能し、社会的弁証法の《機微 subtilités》は逃してしまうので、こうした不均衡は決して取り上げない。

ところが、私はこうした機微ーーあるいはこうした「歴史」の逆説ーーを、表現こそできなくても、感じ取っていたのだ。私は南西部をすでに《読んでいた》。ある風景の光やスペインからの風が吹く物憂い一日の気怠さから、まるまる一つの社会的、地方的言説の型へと発展していくそのテクストを追っていたのである。というのは、一つの国を《読む》ということはそもそも、それを身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだからである c'est d'abord le percevoir selon le corps et la mémoire, selon la mémoire du corps。私は、作家に与えられた領域は、知識や分析の前庭だと信じている。有能であるよりは意識的で、有能さの隙自体を意識する plus conscient que compétent, conscient des interstices même de la compétence のが作家である、と。それゆえ、幼児期は、私たちが一つの国をもっともよく知り得る大道なのである。つまるところ、国とは、幼児期の国なのだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年『偶景』所収)