奇跡がやってきた。一滴の雨もない日々が半年あまり続く乾季の後の喜雨、干天慈雨。今年は雨季の訪れがひどく遅かった。
ずっとわたしは待っていた。
わずかに濡れた
アスファルトの、この
夏の匂いを。
たくさんねがったわけではない。
ただ、ほんのすこしの涼しさを五官にと。
奇跡はやってきた。
ひびわれた土くれの、
石の呻きのかなたから。
ーーダヴィデ(須賀敦子訳)
アスファルトの、この
夏の匂いを。
たくさんねがったわけではない。
ただ、ほんのすこしの涼しさを五官にと。
奇跡はやってきた。
ひびわれた土くれの、
石の呻きのかなたから。
ーーダヴィデ(須賀敦子訳)
雨が地面をたたく音が美しい。これが音楽でなくて、至高の音楽でなくて、なんだというのか。
あらゆる音に対して開かれた耳には、すべてが音楽的に聞こえるはずです。私達が美しいと判断する音楽だけでなく、生そのものであるような音楽。音楽によって生はますます意味深いものとなるでしょう。(ジョン・ケージ『小鳥たちのために』)
そして雨がやんだ夕方には蝉しぐれ。
もっとも当地の蝉の声はいささか弱々しいのが玉に瑕。
フィリピンの作曲家にして音楽学者ホセ・マセダが
何年も前に言っていたことがある。
正確な言い回しではないが、このようなことだ。
「一人の名人を百人が聞く。
百人は聞いて、立ち去る。それが限界だ。
一人が百の太鼓をあやつることもできる。
百人が一つずつ太鼓をもつこともできる」
また、
「バッハもモーツァルトも、支配者のために書いた。
音楽で支配関係を表現した。
みんながわずかなものをわけあって生きることを
あらわす音楽はなかった」
ーー高橋悠治「音楽の反方法論的序説」