坂口安吾といふ三文々士が女に惚れたり飲んだくれたり時には坊主にならうとしたり五年間思ひつめて接吻したら慌ててしまつて絶交状をしたゝめて失恋したり、近頃は又デカダンなどと益々もつて何をやらかすか分りやしない。もとより鑑賞に堪へん。第一奴めが何をやりをつたにしたところで、そんなことは奴めの何物でもない。かう仰有るにきまつてゐる。奴めが何物であるか、それは奴めの三文小説を読めば分る。教祖にかゝつては三文々士の実相の如き手玉にとつてチョイと投げすてられ、惨又惨たるものだ。
ところが三文々士の方では、女に惚れたり飲んだくれたり、専らその方に心掛けがこもつてゐて、死後の名声の如き、てんで問題にしてゐない。教祖の師匠筋に当つてゐる、アンリベイル先生の余の文学は五十年後に理解せられるであらう、とんでもない、私は死後に愛読されたつてそれは実にたゞタヨリない話にすぎないですよ、死ねば私は終る。私と共にわが文学も終る。なぜなら私が終るですから。私はそれだけなんだ。(坂口安吾「教祖の文学」 初出:「新潮 第四四巻第六号」1947(昭和22)年6月1日発行)
我々小説家が千年一日の如く男女関係に就て筆を弄し、軍人だの道学先生から柔弱男子などと罵られてゐるのも、人生の問題は根本に於て個人に帰し、個人的対立の解決なくして人生の解決は有り得ないといふ厳たる人生の実相から眼を転ずることが出来ないからに外ならぬ。(坂口安吾「咢堂小論」初出1947(昭和22)年6月1日)
哲学者だの文士だのヤレ絶対の恋だなんて尤もらしく書きますけれどもね、ありや御当人も全然信用してゐないんで、愛すなんて、そんなことは、この世に実在せんですよ。(坂口安吾「金銭無情」初出:「別冊文藝春秋 第二巻第三号」文藝春秋新社 1947(昭和22)年6月1日発行)
1947年1月1日
坂口安吾などというのが、本当はインチキそのものなので、私が偉そうに、先輩諸先生をヤッツケ放題にヤッツケているのなど、自分自身のインチキ性に対する自戒の意味、その悪戦苦闘だということを御存知ない。(坂口安吾「戯作者文学論――平野謙へ・手紙に代えて――」初出:「近代文学 第二巻第一号」1947(昭和22)年1月1日発行)
編輯者諸君は僕が怒りんぼで、ヤッツケられると大憤慨、何を書くか知れないと考へてゐるやうだけれども、大間違ひです。僕自身は尊敬し、愛する人のみしかヤッツケない。僕が今までヤッツケた大部分は小林秀雄に就てです。僕は小林を尊敬してゐる。尊敬するとは、争ふことです。(坂口安吾「花田清輝論」初出:「新小説 第二巻第一号」1947(昭和22)年1月1日発行)
1947年は安吾もっとも多作の年であり、かつまた梶三千代と出会い、結婚した年である(参照)。
私は知っている。彼は恋に盲いる先に孤独に盲いている。だから恋に盲いることなど、できやしない。彼は年老い涙腺までネジがゆるんで、よく涙をこぼす。笑っても涙をこぼす。しかし彼がある感動によって涙をこぼすとき、彼は私のためでなしに、人間の定めのために涙をこぼす。彼のような魂の孤独な人は人生を観念の上で見ており、自分の今いる現実すらも、観念的にしか把握できず、私を愛しながらも、私をでなく、何か最愛の女、そういう観念を立てて、それから私を現実をとらえているようなものであった。(坂口安吾「青鬼の褌を洗う女」 初出:「愛と美」朝日新聞社 1947(昭和22)年10月5日発行)