2017年12月13日水曜日

「ぼくは彼女とは生きられない、だがまた彼女なしでも生きられない」

あの女をごらん、
彼女をせせら笑っているみたいに開いている戸口の
明りを浴びて、君の方へためらっている。
その彼女の着物の裾は裂け
砂利で汚れているだろう、
彼女のまなじりは
曲ったピンのようにねじれているだろう。

ーーエリオット「風の夜の狂想曲』 深瀬基寛訳


(Vivien Eliot、1920)


「いつもでわたしは信じていますのよ、
あなたはわたしの気持を理解してくださる、共感してくださる、
底なしの溝を超えて、あなたのお手をさしのべてくださると。

なんてあなたは不死身なのね、アキレス腱もないのだわ。
あなたはそれでいいのでしょう、それで押し通していったなら、
おっしゃれますわね、世間のたいていの人間がつまずくのは此処だとね。
でもわたしには、でもわたしには、いったいあなたに
なにがあげられるっていうの? あなたはなにをわたしから受けとれるっていうの?
旅路の果てもそろそろ近づこうという女の
差しのべる友情と思いやりだけのものではないのかしら。
みなさんにお茶でも入れながら、わたしはここの坐って暮すのね……」

ーーーエリオット「或る婦人の肖像」より 深瀬基寛訳





性差の相反する特徴(参照)が意味するのは、性関係への障害として現れたものが同時に、性関係の可能性の条件であることである。ーーここでの「否定の否定」は、障害から免れるとき、我々はまた、障害が妨げていたものを喪失するということである。

我々は現在、エミリー・ヘイル Emily Hale が T. S. エリオットの「沈黙の淑女」、すなわち目立たない愛着の対象であったことを知っている。長い年月のあいだの妻ヴィヴィアンとの離れ離れの生活において。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

(Vivienne Haigh-Wood Eliot and T.S. Eliot, 1931)


この、ほとんど20年の間中、エリオットは、エミリーと結婚するために自由になる時を待ち続けていた。しかし何が起ったのか、エリオットが、1947年1月23日ヴィヴィアンの死を知らされた時。

彼は妻の死に動顛したのだが、その後の成行きはさらに驚かされるものだった。今、予期せずエリオットは、自由にエミリー・ヘイルと結婚できるようになった。この15年間の間、彼女と彼の家族はそれがエリオットの望むところだと信じていた。だが唐突に彼は悟ったのだ、共に生活しようとするどんな情熱も欲望もないことを。

「おれは中年の男としての己に出会った I have met myself as a middle‐aged man」と新しい詩劇『カクテル・パーテイ』の主人公は言う。主人公は気づいたのだ、彼の妻がいなくなったあと、輝かしい、献身的なシーリア Celia と結婚しようという切望を喪失してしまったのだ。最悪の瞬間、と彼はつけ加える、それは、もっとも手に入れたいものへのすべての欲望を失ったと感じたとき、と。

(Emily Hale、1914)


問題は、妻のヴィヴィアンが、その期間を通してエリオットの「症状」のままだったことにある。彼の多義的なリビドーの注入の「つなぎ目」だったのである。「ヴィヴィアンの死は、エリオットの責苦の焦点の喪失を意味する」(Lindall Gordon)、あるいは、エリオット自らが『カクテル・パーティ』の主人公を通して、このトラウマのフィクションによる開陳であるならば、「ぼくは彼女とは生きられない、だがまた彼女なしでも生きられない I cannot live with her, but also cannot live without her」。

《ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である!

Pour qui est encombré du phallus : « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! 》(ラカン、S22、21 Janvier 1975)


ヴィヴィアン-〈モノ das Ding〉の堪えがたい核心は、彼女のヒステリー的暴発に凝縮される。エリオットは決してヴィヴィアンをその保護施設に訪うことはなかった。というのは彼は怖れたのだ、「彼女の激情する要求…抵抗しがたい‘Welsh shriek’(ウェールズ女の金切り声の力」(Lindall Gordon)を。

ヴィヴィアンはレベッカのようであり、それに対してエミリーは新しいウィンター夫人だ。「絶え間ない圧迫と非現実性/その役割をもって彼女はほとんど私に押しつけようとした/執拗な、無意識の、人間の奈落にある力で/ある種の女が備えているもの The whole oppression, the unreality / Of the role she had almost imposed upon me / With the obstinate, unconscious, sub‐human strength / That some woman have」

このように、彼女はエリオットの欲望の対象-原因だった。それが彼にエミリーを欲望させたのだ。あるいは彼は彼女を欲望していると信じさせたは不思議ではない。そしてヴィヴィアンが消え去った瞬間、彼女とともにエミリーへの欲望も消え去った。エリオットのもつれた糸から引き出せる結論は明白である。すなわちヴィヴィアン、あるいはエミリーとの関係のいずれにも愛はなかった。というのは、ラカンが指摘するように、愛は性関係の不可能性を補うものだから。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)


※モノ=対象a

親密な外部、この外密 extimitéが「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
私たちのもっとも近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。(ラカン、セミネール16、12 Mars 1969)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)