2017年12月23日土曜日

(無題)

妻がこのblogをオヨミになっているのを発見した。ボクにとっては驚天動地である・・・blogだけならまだしも・・・何ガ起コッタノカハ全ク記スコト不能デアル

彼女は難しい漢字を使用していない日本語文ならすらすらオヨミになられるのを今頃シッタ

数日前、妻から過去の写真やビデオの整理の手伝いをたのまれたのだが、そのうちのいくつかをここに貼り付けて、我が「日記」の読者である、20年前の初々しい少女に捧げ・・・(以下略)














人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくとこもある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。

再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。

私はここで、想い出すままに、私が絵のなかで出会った女たちについて、語ろうとした。その眼や指先、その髪や胸や腰、その衣裳や姿勢……その一瞬の表情には、――それは歓びに輝いていたり、不安に怯えていたり、断乎として決意にみちていたり、悲しみにうちひしがれていたりするのだが、――私の知らない女の過去のすべてが凝縮され、当人にさえもわからない未来が影を落としている。

私は場面を解釈し、環境を想像し、時代を考え、私が今までに知っていたことの幾分かをそこに見出し、今まで知らなかった何かをそこに発見する。現実の女が、必ず他の女たちに似ていて、しかも決して他のどんな女たちとも同じでないように。(加藤周一『絵のなかの女たち』)

デハ、左様ナラ