2017年12月17日日曜日

ひとりの女とは何か?

ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! (ラカン、S22、21 Janvier 1975)
ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)


症状には大きく二つの意味がある。

①象徴界的症状、すなわち抑圧されたシニフィアン、あるいは欲動の心的表象

②現実界的症状、すなわち欲動自体にかかわるもの(Frederic Declercq、LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE、2004)

フロイト概念においては、今ではほとんど注目されていない「現勢神経症」の症状が②に近似する(精神神経症が①)。

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)
…現勢神経症は(…)精神神経症に、必要不可欠な「身体側からの反応 somatische Entgegenkommen」を提供する。現勢神経症は刺激性の(興奮を与える)素材を提供する。そしてその素材は「心的に選択された、心的外被 psychisch ausgewählt und umkleidet」を与えられる。従って一般的に言えば、精神神経症の症状の核ーー真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perleーーは身体-性的な発露から成り立っている。(フロイト『自慰論 Zur Onanie-Diskussion』1912)


冒頭のラカン文における症状は、現実界的症状ーーほとんど現勢神経症の症状としてよいーーであり、かつまた同じ時期(1975年)にラカンは言っているのだから、「症状=他の身体の症状」のことと判断しうる。

では「他の身体」とは何か。おそらく《われわれにとって異者としての身体(異物としての身体) un corps qui nous est étranger 》(ラカン、S23、11 Mai 1976)(参照)に相当する。

《異者としての身体 un corps qui nous est étranger》とはフロイト概念「異物Fremdkörper」のことである。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

※独語Fremdkörper の仏訳は corps étranger

この異物は、外密、モノ、あるいは対象aに相当する。

親密な外部、この外密 extimitéが「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
私たちのもっとも近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。(ラカン、セミネール16、12 Mars 1969)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)


かつまた他の身体(症状)とは、他の性にかかわる。

女性性をめぐって問い彷徨うなか、ラカンは症状としての女 une femme comme symptôme について語る。その症状のなかに、他の性 l'Autre sexe がその支えを見出す。後期ラカンの教えにおいて、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin が見られる。(Florencia Farìas 「ヒステリー的身体と女の身体 Le corps de l'hystérique – Le corps féminin」(2010.PDF
他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。 (ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm)
性関係において、二つの関係が重なり合っている。両性(男と女)のあいだの関係、そして主体と⋯その「他の性」とのあいだの関係である。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING、2012)

⋯⋯⋯⋯

最近のジャック=アラン・ミレールは次のように言っている。

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、pdfーー女性の享楽と身体の出来事

ミレールのいう「身体の出来事」とは次のラカン文にある。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーこの「症状 symptôme」は、「サントーム sinthome(原固着・原症状)」のことである。《サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps》 (miller, Fin de la leçon 9 du 30 mars 2011)

結局、このトラウマ的身体の出来事が、(ほぼ)ラカンにとっての〈女〉のことであるだろう。

⋯⋯⋯⋯

※附記

前中期のラカンはこう言っている。

大他者、それは身体である!L'Autre, …c'est le corps ! (ラカン、S14、10 Mai 1967 )
何かが原初に起こったのである、それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、「A」の形態 la forme Aを 取るような何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

このA(大他者)が、われわれにとっても最も親密な外部(異者)であり、トラウマ的身体の出来事である。ミレールを再掲すれば、

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、pdf

そして身体の出来事とは、構造的トラウマにかかわる。

我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、構造的トラウマ(性的ー欲動的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(ポール・バーハウ、1998, Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN)

ゆえに、《われわれは皆、トラウマ化されている tout le monde est traumatisé》(ミレール、«Vie de Lacan» , 17 mars 2010)


フロイト的にはトラウマ、あるいは原トラウマは次の状況にかかわる。

経験された寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit をトラウマ的 traumatische 状況と呼ぶ。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
…生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさ Hilflosigkeit と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

そして後に「事故的トラウマ」の寄る辺なさに遭遇すれば、原初の「構造的トラウマ」が蘇る傾向がある。

現在の(寄る辺なき)状況がむかしに経験した外傷的状況を思い出させる die gegenwärtige Situation erinnert mich an eines der früher erfahrenen traumatischen Erlebnisse. (フロイト『制止、症状、不安』1926年)