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2017年12月13日水曜日

ラカンファンという阿呆

いやあなんか言ってくるヤツがいるが、たかがブログだよ、何を書いたっていいだろ。そもそもラカンなんかいまどき有難がってるヤツがマヌケだよ。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、pdf

これが後期ラカン理論の核心だとしたら、フロイトにあるのさ、すでに。

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisseが、欲動の固着 Fixierungen der Libido 点を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』第23章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917)

⋯⋯⋯⋯

女流ラカン派第一人者のコレット・ソレールはこう言っている。

フロイトの命題ーー『制止、症状、不安』のフロイトーー、それは断言している、すべての主体にとって、症状は不安から来ると。未知の享楽の出現、見られ聞かれ感じらた享楽の顕現、それとのトラウマ的、不意打ちの遭遇によって生み出された不安から来ると。すなわち「身体の出来事」である。この理由で私は信じている、フロイトは、症状的享楽を説明するなかで、決して大他者に有罪を着せていない、と。フロイトのあらゆるエディプス構築にもかかわらず、である。(コレット・ソレール2009、L'inconscient Réinventé)

コレット・ソレールのいってることの、フロイト文を短く抜き出すのは、 やや困難だが、ま、次の文だな、たとえば。

不安――危険――寄る辺なさ(トラウマ)Angst – Gefahr – Hilflosigkeit (Trauma) という系列の順序にしたがって、次のように総括することができる。危険状況は、知られた、思いだせる、予期される erkannte, erinnerte, erwartete 寄る辺なき状況 Situation der Hilflosigkeitである。

不安はトラウマにおける寄る辺なさHilflosigkeit im Traumaにたいする原反応であって、この反応は後になって危険状況におかれたとき、援助の信号として再生される。

トラウマを受動的に体験した自我は、能動的にこの反応の再生を、よわめられた形ではあるが繰り返す Das Ich, welches das Trauma passiv erlebt hat, wiederholt nun aktiv eine abgeschwächte Reproduktion desselben。…

子供はすべての苦痛な印象にたいして、それを遊びで再生しながら、同様にふるまうことをわれわれは知っている。このさい子供は、受動性から能動性へ移行することによって、彼の生活の出来事を心的に克服しようとするのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

主流ラカン派の首領ジャック=アラン・ミレールだってこう言っている。

フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、der Wiederholungs­zwang des unbewussten Es(無意識のエスの反復強迫)に存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)

ようは『制止、症状、不安』を読んどけばいいのさ、まずは。

 コレット・ソレールのいっているようにエディプス理論はだめだよ、でもそのエディプスさえ「抜き取り」すれば、ラカンなんてのはほとんどいらないよ、ラカンは熱心なフロイト注釈者にすぎない、どうも「ほとんど」そうらしいな(ま、これは言い過ぎかもな)。

エディプス・コンプレックス自体、症状である(« complexe d'Œdipe » comme étant un rêve de FREUD、ラカン )。その意味は、大他者を介しての、欲動の現実界の周りの想像的構築物ということである。どの個別の神経症的症状もエディプスコンプレクスの個別の形成に他ならない。この理由で、フロイトは正しく指摘している、症状は満足の形式だと。ラカンはここに症状の不可避性を付け加える。すなわちセクシャリティ、欲望、享楽の問題に事柄において、症状のない主体はないと。

これはまた、精神分析の実践が、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない理由である。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(父との同一化)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを症状との同一化とした。(ポール・バーハウ2009、(PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains)

ようはエディプスコンプレクスとか去勢不安、ペニス羨望は鼻をつまんで読む必要はたしかにある。これらの概念は、ドゥルーズ が『シネマ』でベルクソンやパースの哲学を一新しようとしたときの手法「抜き取り」をしなくちゃな、エディプスなんてのは特に《固定化した不変の要素、何か澱んだ、生成変化(devenir)から切り離された要素》(Deleuze et Bene 1979)なんだから。


※付記

上のポール・バーハウの文に症状との同一化とあるのは、そのままの同一化ではなく、同一化しつつ距離をとること。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである。症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。

En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, Le Séminaire XXIV, 16 Novembre 1976)