2017年12月4日月曜日

朝風に似て歩みもかるくすがしい乙女よ

ベルナルダ・フィンクは泣いている、このマタイのなかで最も美しいアリアのひとつで。

◆Hart & Ziel: Erbarme Dich Fink



 Matthäus-Passion,   Nr. 39 Arie (Alt)
  
Erbarme dich, mein Gott,   憐れみたまえ わが神よ   
Um meiner Zahren willen ;  滴り落つるわが涙のゆえに。   
Schaue hier, Herz und Auge  此を見たまえ、心も眼《まなこ》も   
Weint vor dir bitterlich  御身の前にはげしくもだえ泣く   
Erbarme dich, ernarme dich. 我を憐れみたまえ 憐れみたまえ


武満徹はこのアリアをピアノ用に編曲している。彼は死の前々日、マタイを全曲聴いている。

昨日はマタイ受難曲を全部聴いたんだよ。いやぁバッハはすごいね。僕らはクリスチャンじゃないけどなんなんだろう……(武満徹 1996年2月19日)

「憐れみたまえ Erbarme dich」は武満がもっとも愛したアリアのひとつの筈だ。

ボクは高校時代、バッハばかり聴いていた。そのなかでもやはりマタイをくりかえして。

プロフェッショナルがベルナルダ・フィンクのように泣くのが必ずしも「正しい」わけではないが、「ボクは彼女に同一化した」。

同一化は…対象人物のたった一つの特徴 (「一の徴」einzigen Zug)だけを借りる(場合がある)…同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

ボクはこの文を「愛は、たった一つの特徴への同一化から生まれる」と意訳する。

フロイトが「たった一つの特徴」(一の徴 der einzige Zug)と呼んだもの(ラカンの trait unaire)、この「一の徴」をめぐって、後にラカンは彼の全理論を展開した。(『ジジェク自身によるジジェク』2004)
ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

というわけで、ボクのベルナルダ・フィンクへの愛は偏っている。シューベルトの「夜咲きすみれ Nachtviolen」のあの箇所、そのベルナルダの歌声をこよなく愛するのは、ぜんぜん冷静な鑑賞によるものではない。Bernarda Fink, "Nachtviolen"; Franz Schubert(1:38~

でもこんなに愛してしまうのは何かの錯覚だろうと、ベルナルダの閃光にうたれたとき、二人の名歌手の同じ箇所を聴いてはみた。

・Schwarzkopf / Fischer: Nachtviolen, D. 752 (1:51~)
・Dietrich Fischer-Dieskau; "Nachtviolen"(1:56~

ーーいやあウンコちゃんだね、ふたりともプロフェッショナルすぎる。真に迸るものが欠けている。そう思った。

ところで昨日また同じ箇所を中心に、いにしえの名歌手の歌声で聴いてみた。

・Elisabeth Schumann; "Nachtviolen"; Franz Schubert(1:44~
・Rita Streich "Nachtviolen" Schubert(2:24~

ーーこのふたりはとってもいい。ベルナルダ・フィンクと同じくらい。

叫びがきこえてくる、手に届かないものへの叫びが。天使に手をのばすかのような。

だがこの若者の眉の弧線を、かくも期待に張りつめさしたのは、
乙女よ、おんみではなく、ああ、またかれの母でもなかったのだ。
おんみゆえにーーいつくしみぶかくかれを感じ取る乙女よ--おんみゆえに
かれの唇はよりゆたかな表情にたわんだのではなかったのだ。
朝風に似て歩みもかるくすがしい乙女よ、おんみの出現が
かれをかほどまでに激動さしたと、おんみはまことに信ずるのか。
まことにおんみによってかれの心は驚愕した。けれど、もっと古くからのつよい襲いが
この感動に触発されてかれの中へと殺到したのだ。
かれを揺すぶれ、目覚ませよ……しかもおんみは、かれを暗いものとの交わりから完全に呼びさますことはできないのだ。
たしかに、かれは脱出しようと欲している。重圧の鎖を切って
おんみのなつかしい心に身をよせ、そこを隠れ家として、かれは自己をとりもどし自己をはじめる。
だが、かつてかれが自己をはじめたことがあるだろうか。(リルケ、ドゥイノ、第三の悲歌)