2017年12月4日月曜日

ボクの場合、ほかの人々と一緒に音楽は聞けない

……音楽は遠ざかろうとするなにかであり、人がつかまえたと思っても、どこかへ行ってしまうようななにかである。留まるものと逃れ去るもののあいだに張られた絆。逃れ去る女。北の茫漠とした風景にたれこめる灰色の霧がすぐに包み隠してしまう太陽光線のはかなさ。光が死に絶えても、なおあとに残る不定形のうごめき。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド PAINO SOLO』)

こういう言い方は錯覚に閉じ籠っているだけには違いないが、ミシェル・シュネデールのこの小さなグールド論は一語一句、ボクに「わかる」。一冊の本を読んでこんなに同一化したことはないぐらい、彼の言葉はボクのものである。

音楽を聞くには隠れなければならないと思うことがある。音楽は手袋の内と外をひっくり返すようにわたしを裏返してしまう。音楽が触れ合いの言葉、共同体の言葉となる。そんな時代がかつてあったし、いまも人によってはそんな場合があるのはもちろん知っているが、わたしの場合は、ほかの人々と一緒に音楽は聞けない。誰かと一緒に音楽を演奏するとなれば話は別だ。(……)

だが、なぜ一緒に聞くことができないのだろう。なぜ音楽は孤独で身動きできない状態にあるときのわたしたちをとらえるのか。一緒に聞けば、他人の目の前で、そして他人とともにいながら、自己をあくまでも自分ひとりきりのものでしかない状態に投げ出してしまうことになるからなのか。それぞれの人間によってたがいに異なるはずの遠くの離れたものを共有することになるからなのか。子供時代も死も共有できはしないからなのか。

音楽、それは身体と身体のぶつかりあいであり、孤独と孤独のぶつかりあいであり、交換すべきものがなにもないような場での交換である。ときにそれは愛だと思われもしよう。演奏する者の身体と聴く者の身体がすっかり肉を失い、たがいに遠く離れ、ほとんどふたつの石、ふたつの問い、ふたりの天使を思わせるものとなって、どこまでも悲しい狂おしさを抱いて顔を向き合わせたりしないならば。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド PAINO SOLO』)

シュネデールはほとんど「女性の享楽」、音楽を聴くときの「自閉症的享楽」を語っているようにさえみえる 。

MICHEL SCHNEIDER ミシェル・シュネデール 

1944年生まれ。フランスの作家、高級官僚、精神分析医。1988年から1991年まで文化省で音楽とダンスの局長を務める。精神分析の研究書に『記憶の損傷』、小説に『青い過去』、『私は夜について話すのが怖い』[いずれも邦訳なし]、伝記風エッセイに『グレン・グールド 孤独のアリア』(フェミナ・エッセイ賞を受賞。)、『シューマン 黄昏のアリア』、『プルースト 母親殺し』などがある。



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以下はLiora Goderによる「女性の享楽」をめぐる論からである。

昼間、学校から家に戻って来た一人の少女。彼女は、母が用意してくれた温かい食事をとるために、台所のテーブルに座る。母はテーブルの向こう側に座っている。母は既に夫と一緒に食事をとったけれど、娘につき合って学校での様子について娘の話をきくことを望んでいる。

少女は美味しい食事を食べ始め、いくつかの母の質問に応える。けれども少女が食事のあいだにほんとうに望んでいるのは、学校の騒動から離れて家庭の静けさと落ち着きに戻って、自分自身と向き合うことだった。

二人はそんなふうに向かい合って座っている。すこしづつ沈黙が領しはじめる。少女は食事に集中してゆく。突然彼女は顔をあげ、目前にぞっとするような眼をふたつ見た。人間的なところは何もない空っぽで不動の両眼が、彼女を見つめている。まるで母は世界から消え去てしまったかのようで、母の場に置き残していったのは、少女を見ないままで見つめている怪物の眼。少女はこの眼差しの下に震えおののく。この光景を前にして目を伏せることができない。

この光景は幼年期に何度も繰り返された。彼女は、思春期をへて、妻になり、仕事をもつ。あの眼差しが戻って来る。そして何年も後の分析治療のあいだに、眼差しはふたたび現れる。常に次の問いを伴ってーー「母はどこにいったのだろう、私に固着した空っぽの眼差しを置き残したとき」。そして常に同じ答えをする、「母はアウシュヴィッツに戻ったんだわ。あんな怪物はアウシュヴィッツ以外の何ものでもありえない」。(Liora Goder, What is a Woman and What is Feminine Jouissance in Lacan? 、PDF


ーーこの図の注釈は「ヒステリー的身体と女の身体」を見よ。

このLiora Goderの文は、女性の享楽とは、「女性」とは実は関係がないことが示されている。もっとも標準的には女性の享楽は、解剖学的な女性のほうにより多く現ると言われることが多い。

だが女性の享楽とは身体の享楽のことであり、自閉症的享楽なのである。

身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

Liora Goderによるすぐれて具体的な説明は以下の文にある。

話は理想的で満足感を与えてくれる母のイメージで始まる。けれども突然、この母のイメージはどこかに消え去せ、「女性の享楽」が完全な生身で現れる。母は絶対的な大他者となる。もはや母はいない。母は眼差しの奈落のなかへと消滅し、会話から完全な外部・あらゆる絆の彼方・すべてのコミュニケーションの彼岸へと向かって接触を断つ。

この小さな女の子の「女性の享楽」との出会いは、トラウマ的である。少女は後に、彼女を恐怖で竦ませ戦慄させたこの享楽への魅惑を練り上げるようになる。この光景は反復される。小さな女の子として、思春期の乙女として、若い女性として、彼女は常にこの光景に回帰する。この回帰は同じ問いを伴っている。母はどこに行ったのか? この問いはトラウマ的「女性の享楽」を意味に結びつける試みである。応答として「アウシュヴィッツ」を想像することは、どこでもない場所から彼女の母を取り戻し、母の歴史に再結合しようとする試みである。そうすることによって、母(あの刻限、主体を滅却させてしまった母)を主体として位置づけようとする。

何年も後の若い女性の分析において、何か別のものが現れる。アウシュヴィッツについての無意識的幻想のなかで、彼女の母はハンサムなナチ将校を欲望した。小さな女の子は、母が口にしたことのある「ハンサムなドイツ人」についての発言を元に、この性的幻想を構築した。この幻想は小さな女の子を、トラウマ的「女性の享楽」にファルス的意味合いを繋げることを可能にした。

少女の享楽との出会いは、非ファルス的享楽との出会いであったにもかかわらず、彼女は母を男たちを愛する性的女として位置づけることに成功した。男たちを欲望する母についてのこの幻想は、後年、パートナーの選択を彼女に指定したものとまさに同じ幻想である。しかしパートナー特定の選択を決定づけたものは厳密に、彼女の母の「女性の享楽」に関する少女の魅惑の点だった。

彼女をダンスに誘った若い男が、踊りの最中に己れのなかに没入して、彼自身の顔の上に「女性の享楽」の表出させ、彼女から自身を切り離して遠くに行ってしまったまさにその瞬間、彼女はたちまち恋に落ちた。

目を閉じた若い男の恍惚状態は、男を彼女の母の「女性の享楽」に繋げる特定の徴である。そしてその徴が彼女の愛を鼓舞した。明らかに彼女はそれに気づいていなかった。彼女は途方もなく素敵に踊るハンサムな男に恋に落ちた。彼女は知らなかった。数年の臨床分析を経て、彼女がこの男に魅了されたものは、母のなかに出会ったトラウマ的「女性の享楽」と直かに結びついているのに感づいた。

しかしながらこの享楽は、ファルス的衣装を着せられていた。言い換えれば、小さな女の子にとって非ファルス的享楽は、ファルス的享楽の対象a に変形された。愛の生活のエロス化と標準化を可能にするファルス関数は、享楽の堪え難いトラウマ的臍が、魅惑をもたらすエロス的・性的衣装のなかで、ファルス化された対象a へと変質するような仕方で作用した。

このファルス的衣装が、現実界的対象の恐怖をアマルガム化された対象への移行を可能にする。したがって「女性の享楽」は、彼女のパートナーのなかで既にこの変形を受けていた。少女の母のなかの硬直した・死のような享楽は、享楽で充溢した踊る身体とその童顔へと変形された。このメタモルフォーゼは、既にファルス的衣装ーー恐怖の対象からアマルガム化された対象に向けての移行を促すファルス的衣装ーーの効果をもっている。

この事例では二つの点が興味深い。

第一に、パートナーとして選ばれた男は「女性の享楽」へのアクセスを持つものとして同定された。したがって、性別化の式の女性側に印される。この例は、生物学的な解剖構造によって定義される男が、完全に女性側に己れを位置づけうるという観察を我々に許してくれる。そしてこれは彼をホモセクシャルにするわけではない。

第二に、そして結論として、対象a ーーファルス享楽の対象であり、それ自体、パートナーの魅力とエロス化され性化されたイメージによって衣装を着せられてなければならないーーは、この特徴ある事例では、「女性の享楽」を覆っていた。したがって我々はここで、二重の衣装化をみる。すなわちトラウマ的女性の享楽は対象a によって覆われファルス化される。そしてこの対象a 自体が、魅惑的ダンサーによって覆いを着せられていた。(同 Liora Goder, What is a Woman and What is Feminine Jouissance in Lacan? 、PDF