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2017年12月3日日曜日

「泣き、嘆き、憂い、怯え」

かつて仲間たちは、ヴィヴァルディの音楽は大衆化されすぎ、通俗的、下品で熱心に聴くに値しないと「通顔で」言っていた(当時、わたくしは合唱団ーー大学内ではなく外部の合唱団ーーに入っていた)。たしかに「四季」などは、当時もいまも耳を新しくして聴くことはし難い。

でも、次の「泣き、嘆き、憂い、怯え」(Piango, gemo, sospiro e peno)を数年まえはじめて聴いてびっくりした。

◆Piango, gemo, sospiro e peno




ここからバッハは、ロ短調ミサの最も「崇高な」箇所ーー Crucifixus(キリストは十字架に磔にされた)ーーを作り上げたのである。

◆J. S. Bach - Mass in B Minor BWV 232 - 14. Crucifixus (14/23)




バッハはこのロ短調を作曲するまえだった思うが、カンタータ第12番で、まさにヴィヴァルディのあの「歌謡曲」の題名《泣き、歎き、憂い、怯え》を変えないまま、教会カンタータとして作曲している。よほどこの旋律を愛したのだろう。

◆J. S. Bach - Cantata "Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen" BWV 12 - 2. Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen (2/7)




このところ刺激保護壁が完全に崩壊してしまっているせいなのか、バッハの崇高化された「泣き、嘆き、憂い、怯え」よりも、冒頭のヴィヴァルディ原曲「泣き、嘆き、憂い、怯え」のほうが、いっそう魂に染み入る。

外部から来て、刺激保護壁 Reizschutz を突破するほどの強力な興奮を、われわれは外傷性traumatischeのものと呼ぶ。

外部にたいしては刺激保護壁があるので、外界からくる興奮量は小規模しか作用しないであろう。内部に対しては刺激保護は不可能である。(……)

刺激保護壁 Reizschutzes の防衛手段 Abwehrmittel を応用できるように、内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向が生まれる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

 Bernarda Finkによる「夜咲きすみれ Nachtviolen」のあの箇所もきいてみる、"Nachtviolen"; Franz Schubert(1:38~

この箇所を聴くと見えなかった扉がひらくのである。奇跡のようにして。《癒やされた傷口をあらためて裂くように》(リルケ「放蕩息子の家出」)--いや、それだけの扉ではない、ひょっとして別の扉が。

さらにふたたび

ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke 堀辰雄訳

さらにふたたび、よしや私達が愛の風景ばかりでなく、
いくつも傷ましい名前をもつた小さな墓地をも、
他の人達の死んでいつた恐ろしい沈默の深淵をも
知つてゐようと、さらにふたたび、私達は二人して
古い樹の下に出ていつて、さらにふたたび、身を横たへよう
花々のあひだに、空にむかつて。

《美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel》(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)

美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを称賛するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。(リルケ『詩への小路』ドゥイノ・エレギー訳文1、古井由吉)