2017年12月15日金曜日

つばさの玉虫色

八千矛神よ、この私はなよなよした草のようにか弱い女性ですから、私の心は浦や洲にいる鳥と同じです。いまは自分の思うままにふるまっている鳥ですが、のちにはあなたの思うままになる鳥なのですから、鳥のいのちは取らないでください……(高橋睦郎『古事記』現代語訳)


ムリな注文したらダメだよ、鳥のいのちをとるつもりは全くないね

すこし前方に、べつの一人の小娘が自転車のそばにひざをついてその自転車をなおしていた。修理をおえるとその若い走者は自転車に乗ったが、男がするようなまたがりかたはしなかった。一瞬自転車がゆれた、するとその若いからだから帆か大きなつばさかがひろがったように思われるのだった、そしてやがて私たちはその女の子がコースを追って全速力で遠ざかるのを見た、なかばは人、なかばは鳥、天使か妖精かとばかりに。(⋯⋯)

それらの鳥たちはいままたこの世界の美をつくりだしていた。それらの鳥たちはかつてはアルベルチーヌの美をつくりだしていたのであった。かつては私は彼女をそんな神秘な鳥のように見ていたのだ、ついで私は彼女をこの浜辺の大女優、みんなの欲望に訴える女、もしかすると誰かのものになっている女のように見たのだ。だからこそ彼女をすばらしい女だと感じたのであった。ある夕方堤防の道をゆったりした足どりであゆんでいるのを私が見かけた鳥、どこからきたかわからない鷗のようなほかの少女たちの団結にとりかこまれていた鳥、あのアルベルチーヌも、ひとたび私のところで囚われの身になると、そのつばさの玉虫色をことごとく失うとともに、ほかの者たちが彼女をわがものにする機会をもことごとく失ってしまったのだ。彼女はすこしずつその美を失ってしまったのだ。私が彼女を浜辺のかがやきのなかにもどしてその姿をふたたび目に見るためには、彼女がその種の散歩に私にではなく誰かほかの女なり若い男なりに言葉をかけられているのを私が想像する必要があった。(プルースト「囚われの女」)