2017年12月14日木曜日

牛乳売の娘と「あしたには Morgen」

若い娘たちは若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいだいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう! (プルースト「ゲルマントのほうⅡ」井上究一郎訳)

◆R. Strauss "Morgen" Elisabeth Schwarzkopf/Glenn Gould




……そんなとき、突然私が目にとめるのは、雨にぬれた路面が日ざしを受けて金色のラッカーと化した歩道にあらわれて、太陽にブロンドに染められた水蒸気の立ちのぼるとある交差点の舞台のハイライトにさしかかる宗教学校の女生徒とそれにつきそった女の家庭教師の姿とか、白い袖口をつけた牛乳屋の娘とかであって、(……)バルベックの道路と同様に、パリの街路が、かつてあんなにしばしばメゼグリーズの森から私がとびださせようとつとめたあの美しい未知の女性たちを花咲かせながら、それらの女性の一人一人が官能の欲望をそそり、それぞれ独自に欲望を満たしてくれる気がする、そんな光景に接するようになって以来、私にとってこの地上はずっと住むに快く、この人生はずっとわけいるに興味深いものであると思われるのであった。(プルースト「ゲルマントのほうⅠ」)

◆Lotte Lehmann: "Morgen!" (R. Strauss)




私は窓のところに行き、内側の厚いカーテンを左右にひらいた。ほの白く、もやが垂れて、あけはなれている朝の、上空のあたりは、そのころ台所で火のつけられたかまどのまわりのようにばら色であった、そしてそんな空が、希望で私を満たし、また、一夜を過ごしてから、ばら色の頬をした牛乳売の娘を見たあんな山間の小さな駅で目をさましたい、という欲望で私を満たした。(プルースト「逃げさる女」)

◆Arlene Augér "Morgen" R.Strauss




風景が変化を増し、けわしくなり、汽車が二つの山のあいだの小駅にとまった。山峡の底、渓流のほとりに、一軒の番小屋が見えるだけであったが、その家は、窓とすれすれのところを川が流れ、まるで水中に落ちこんでいるようだった。かつてメゼグリーズのほうやルーサンヴィルの森のなかをひとりでさまよったとき、突然あらわれてこないものかとあんなに私がねがったあの農家の娘よりもひときわまさって、ある土地の生んだ人間にその土地独特の魅力が感じられるとすれば、このときその小屋から出てきて、朝日が斜めに照らしている山道を、牛乳のジャーをさげながら駅のほうへくるのを私が見た背の高い娘は、まさにそれであったにちがいない。

山がけわしくて他の世界から隔絶しているこんな谷間では、彼女が見る人といっては、わずかのあいだしか停車しないこうした汽車の乗客よりほかにはけっしてないだろう。彼女は車輌に沿って歩きながら、目をさました数人の乗客にミルク・コーヒーをさしだした。その顔は朝日にぱっと映え、空よりもばら色であった。私はその娘をまえにして、われわれが美と幸福との意識をあらたにするたびに心によみがえるあの生きたいという希望をふたたび感じた。(プルースト 「花咲く乙女たちのかげにⅠ」井上究一郎訳、以下同様)

◆Janet Baker sings 'Morgen' by Richard Strauss (Pianist: Gerald Moore)




われわれは美と幸福とが個性的なものであることをいつも忘れている、そして、いままでに気に入ったさまざまな顔や、かつて経験したいろんな快楽をつきまぜ、そこから一種の平均をとってつくりあげる一つの因習的な型を、心のなかで、美や幸福に置きかえてしまい、無気力な、色あせた、抽象的な映像しかもたなくなっている、そうした映像には、かつて知ったものとは異なる、新しい、ういういしいあの性格、美と幸福とに固有のあの特徴が失われているというわけだ。そしてわれわれは、人生について悲観的な判断をし、それを正しいと思っている、そのじつ、美も幸福も見おとして、それらの一原子さえもふくまれない綜合に置きかえながら、両者を考慮に入れたつもりになっていた。

だから、新しい「名作」だといわれても、ある文学通は、そんなものにたいして、読みもしないまえから退屈のあくびをする、なぜなら彼は、いままでに読んだ名作の一種の合成物を想像するからである、それにひきかえ、ほんとうの名作というものは、特殊なもの、予見できないものであって、それ以前の傑作の総和から生まれるものではなく、この総和を完全にとりいれてもまだ見出すのに十分ではない何物かから生まれるのである、なぜなら、真の名作はまさにその総和のそとにあるのだから。そうした新しい作品を知ったとなると、先ほどまで無関心だった文学通も、そこに描かれている現実に興味を感じる。

このようにして、私がひとりでいるときに思考に描く美のモデルとは異質なこの美しい娘は、たちまち私にある種の幸福の味(われわれが幸福の味を知ることができるのは、そういうつねに特殊の形式のもとでしかない)、彼女のそばで暮らせば実現されるであろうと思われる幸福の味を私にあたえた。しかし、ここにもやはり習慣の一時的休止が多分に作用しているのであった。彼女と向かいあっているのは、強い悦楽を味わうことの可能な充実した状態にある私の存在だったということで、私は偶然その場にあらわれたこの牛乳売の娘を特権化しているのであった。

◆Gundula Janowitz, Soprano. Richard Strauss, Morgen



普通はわれわれは自己の存在を最小限に縮小して生きているのであって、われわれの能力の大部分は眠っている、なぜならわれわれの他の能力は習慣の上に寄りかかって休息していて、習慣はただ自分のやるべきことだけを知っていて、われわれの他の能力のたすけを必要とはしないからである。ところがこの旅行の朝は、私の生活の慣例の中断や、場所と時間との変化などが、他の能力のたすけを欠くことのできないものにしてしまったのであった。いつも部屋にとじこもって生活し、朝早く起きることがなかった私の習慣は、欠陥をあらわし、その欠陥を補うために、私の他のあらゆる能力がはせ参じ、たがいに熱心をあらそいーーすべてが波のように一様につねよりも水準を高めーーもっとも低級なものからもっとも高尚なものへ、つまり呼吸、食欲、血液循環から、感受性、想像力へと高まったのであった。

この娘が他の女たちに似ていないと私を信じさせたかぎりにおいては、この地方の野生の魅力が娘の魅力に花をそえていた、といっていいのかもしれないが、しかし彼女もこの土地に魅力をそえていた、といえるのであった。せめてこの娘といっしょに、つぎからつぎへと時間をすごし、渓流のところまで、乳牛のところまで、汽車のところまで、連れだってゆき、いつも彼女のそばにいて、彼女に気心を知られていると感じ、彼女の思考のなかを自分で占めることができたら、人生はどんなにたのしいものに思われるだろう。彼女は田舎暮らしの魅力と早朝の数時間の魅力とを私に教えてくれるだろう。

◆Jessye Norman sings "Morgen" by Richard Strauss



私はミルク・コーヒーをもってきてくれるように合図した。娘に目をつけてもらいたい欲求が私にわきおこっていた。彼女は私を見なかった、私は彼女を呼んだ。非常に大柄なからだの上の、その顔の色は、じつにあざやかな金色とばら色なので、まるでかがやくステーンド・グラスを通してながめられているようだった。彼女はこちらにひきかえしてきた、私は彼女の顔から目を離すことができなかった、その顔はだんだん大きくなり、まるで太陽のようで、はじめはじっと見つめられそうだが、だんだん近づいて、こちらのそばまでやってきて、そばでながめられるようになると、ぱっと金色と赤でまぶしく目を射るかのようであった。彼女は私の上に鋭い視線を投げたが、そのとき乗務員がデッキのドアをしめ、汽車は動きだした、私は娘が駅を去って、また元の山道をひきかえしてゆくのを見た、もうすっかりあけはなれた朝であった、私は暁から次第に遠ざかっていった。

この娘が原因で、私の高揚が生みだされたのか、それとも逆に、私の高揚が原因で、この娘を間近に見たときのあの快楽の大部分がひきだされたのか、ともかくも、彼女は私の快楽と非常に深くまじりあっていたので、彼女をもう一度見たいという欲望は、何よりもまず、この高揚の状態をすっかり消滅させたくない、この高揚にそれとは知らずに協力していたひとと永久にわかれたくない、という精神的な欲望になるのであった。それは単にこの状態が快いものであったからばかりではない。それはとりわけ(弦をさらに強く緊張させ、神経をさらに早く振動させるとき、ちがった音色、ちがった顔色を生むように)、この状態が、私の見ているものにちがった色調をあたえ、俳優とおなじはたらきをして、私をかぎりなくたのしい未知の世界に連れこんでいたからなのだ。

汽車が速度をはやめだしたあいだも私はまだじっとその美しい娘を目で追っていたが、その姿は、私の知っている人生とは何かのふちかざりでへだてられた、べつの人生の一部分のようであり、そこにあっては、物の呼びさます感覚は、もはや普通の感覚ではなく、いまそこから出て元の人生に帰ることは、私自身を永久に見すてるにもひとしかったであろう。すくなくとも、そうした新しい人生につながっていると感じる甘美な気持をつづけてもつには、毎朝ここへきてこの田舎娘からミルク・コーヒーを買うことができるように、この小さな駅のすぐ近くに住めばよかったであろう。

◆Barbara Bonney; "Morgen!"; Richard Strauss




しかし、ああ! 私がこれから次第に早くそのほうにはこばれてゆくべつの生活には、彼女はつねに不在なのだ。かならずいつかまたこのおなじ汽車に乗り、このおなじ駅にとまれるようにしよう、そうしたプランを立てないではとても私はあきらめてこれからの生活を受けいれる気にはなれなかった。そうしたくわだては、利己的な、能動的な、実際的な、機械的な、怠惰な、遠心的な、このわれわれの精神のもちかたを、いくぶんひきたててくれる役には立った、というのも、われわれの精神はすぐに努力を回避して、たのしい印象をもったあとでも、それを普遍的な公平な方法で自己のなかに深めてゆくことを怠るからである。そして他方、われわれはそうした印象をいつまでもつづけて考えたい欲望をもつのだから、精神は、そうした印象を未来のなかに想像し、それをふたたび生まれさせることのできるような情勢をなんとかしてうまく準備しようと望む、しかしそのときは、もう印象の本質について教えてくれるものは何も残っていない、精神はただわれわれに、印象をわれわれの内部に再創造する骨折を省かせ、外部からあらたにそれをひきだしてこさせようとするだけなのである。(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅠ」井上究一郎訳)

◆Elisabeth Schumann; "Morgen!"; Richard Strauss




どれがいいとはまったく言えないな、グールドのピアノにことさら惹かれるとはいえ。

Jessye Normanのイントロにおける神々しい表情、あまりきいたことがなかったJanet Bakerの遠くからやってくるような冒頭。それに Lotte Lehmann や Elisabeth Schumannーー戦前の名歌手ーーの濃密な、漲った声音にどうして惹かれないでいられよう(今は名を挙げていない歌手は、バッハ歌いやフォーレ歌いとして、かつてから愛する歌手)。

朝と夕、昨日と今日、魂の高揚と沈着⋯⋯それぞれによって愛する演奏はかわってしまう。

諸君は自分が何を望んでいるか実際に知っているか? ――自分たちは真であるものを認識するには全く役に立たないかもしれない。この不安が諸君を苦しめたことはないか? 自分たちの感覚はあまりにも鈍く、自分たちは敏感に見ることさえやはりあまりにも粗っぽすぎるという不安が? 

自分たちが見ることの背後に昨日は他人よりも一層多くを見ようとしたり、今日は他人とは違ったように見ようとしたり、あるいは諸君がはじめから、人々が以前に見つけたと誤認したものとの一致あるいは反対を見出そうと渇望していることに、気づくとすれば! おお、恥辱に値する欲望! 

諸君はまさに疲れているためにーーしばしば効果の強いものを、しばしば鎮静させるものを探すことに、気づくとすれば! 真理とは、諸君が、ほかならぬ諸君がそれを受け入れるような性質のものでなければならないという、完全で秘密な宿命がいつもある! 

あるいは諸君は、諸君が冬の明るい朝のように凍って乾き、心に掛かる何ものも持っていない今日は、一層よい目を持っていると考えるのか? 熱と熱狂とが、思考の産物に正しさを調えてやるのに必要ではないか? ――そしてこれこそ見るということである! 

あたかも諸君は、人間との交際とは異なった交際を、一般に思考の産物とすることができるかのようである! この交際の中には、等しい道徳や、等しい尊敬や、等しい底意や、等しい弛緩や、等しい恐怖感やーー諸君の愛すべき自我と憎むべき自我との全体がある! 

諸君の肉体的な疲労は、諸事物にくすんだ色を与える。諸君の病熱は、それらを怪物にする! 諸君の朝は、事物の上に夕暮れとは違った輝き方をしてはいないか? 

諸君はあらゆる認識の洞窟の中で、諸君自身の幽霊を、諸君に対して真理が変装した蜘蛛の巣として再発見することをおそれてはいないか? 諸君がそのように無思慮に共演したいと思うのは、恐ろしい喜劇ではないのか? ――(ニーチェ『曙光』539番)