2018年1月15日月曜日

ああ、それ

ああ、その「女性の享楽」ってほとんどこの類じゃないだろうか?

「そうだわ、女たちのすべてが、ファルス秩序に統合されるわけじゃないわ。女のなかには何かがあるのよ、片足はファリックな秩序に踏み込み、もう一方の足は神秘的な女性の享楽に踏み込んでいるのよね、それが何だかわからないけれど」ーー「性別化と四つの言説における「非全体」

ーーってわけじゃないか、女性の神秘化だよ。ボクはそれだけは避けなくちゃいけない、とずっと考えてきた(すこしまえまではそればかり記していたような気がする)。

ようするに二十世紀後半の、ある意味で二流三流の「詩的で曖昧な作家たち」(デリダまわりのフェミニストも含む)の寝言・戯言に依拠するのだけは。

ボクの基本的な出発点は、次の二つの文だ(参照:浅瀬さえない表面としての女)。

人は女を深いとみなしているーーなぜか? 女の場合にはけっして浅瀬に乗りあげることはないからである。女はまだ浅くさえないのである。(ニーチェ『偶像の黄昏』 「箴言と矢」27番、1888年)
女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)

このところ記しているのは、これから逃れる女性の享楽があるとしたら何か、だ。それは主にジャック=アラン・ミレールとコレット・ソレールの二人に依拠している。

ま、でもそれぞれ自由なのだから、そしてその自由さから新しい観点が出てくるのだろうから、とくに文句はいうつもりはない。ボクは到底その立場をいまのところ取ることはできないというだけだ。