2018年2月19日月曜日

三種類の原抑圧

「三種類の原抑圧」をめぐってだが、その前に先ず、二種類の原抑圧について簡略に記す(おおむねいまだ一種類の、父性隠喩としての原抑圧しか認知されていない)。

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幼児は話し始める瞬間から、その前ではなくそのまさに瞬間から、抑圧(のようなもの)がある、と私は理解している。

À partir du moment où il parle, eh ben… à partir de ce moment là, très exactement, pas avant …je comprends qu'il y ait du refoulement. (ラカン、S20、13 Février 1973)

ここでラカンが抑圧と言っているのは原抑圧であり、父性隠喩とは関係がない。

これは現在若きラカン派のリーダーと呼ばれているロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa が10年前、明晰に指摘している(彼が31才のときの著作である。もともとジジェクがロレンゾ20代半ばのときに彼の論文を紹介して名が知れるようになった)。

父性隠喩の出現以前に、言語は(非統合的 nonsyntagmatic 換喩として)既に子供の要求を疎外するーーしたがって、また何らかの形で抑圧されるーー。しかし、無意識も自己意識もいまだ完全には構造化されていない。原抑圧は、エディプスコンプレックスの崩壊を通 してのみ、遡及的(事後的)に、実質上抑圧される。

(……)結局、我々は認めなければならない、ラカンは我々に二つの異なった原抑圧概念を提供していることを。広義に言えば、原抑圧は、原初のフリュストラシオン(欲求不満)ーー 「エディプスコンプレックスの三つの時」Les trois temps du complexe d'Oedipe の最初の段階の始まりーーの帰結である。《原抑圧は、欲求が要求のなかに分節化された時の、欲望の疎外に相当する》(E690:摘要)。明瞭化のために、我々はこの種の原抑圧を刻印 inscription と呼びうる。

他方、厳密な意味での原抑圧は、無意識の遡及的形成に相当する。それは(意識的自我の統合に随伴して)、エディプスコンプレックスの第三の段階の最後に、父性隠喩によって制定される。この意味での原抑圧は、トラウマ的原シニフィアン「母の欲望」の抑圧と、根本 幻想の形成化に相当する。(ロレンゾ・チーサ2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

このところ何度か示している次の図の左側二つは、このロレンゾ文の図式化としても読める。




この図の S(Ⱥ)とは「母の欲望」にかかわるマテームである(参照:「母の法と父の法(父の諸名)」)。

ラカンによれば、〈母の欲望〉を構成する「原-諸シニフィアン」は、イメージの領域における (子供の)欲求の代表象以外の何ものでもない。同じ理由で、これらの想像的諸シニフィ アン/諸記号は、刻印としての原抑圧を徴づける。すなわち、子供が、要求のなかで、彼の欲求を表明し、要求が想像的シニフィアンを創造すれば、子供は抑圧をこうむる。 (同、ロレンゾ・チーサ2007)

したがって上の図の左端、S(Ⱥ)/Ⱥが一次原抑圧、真ん中のS1/S(Ⱥ)が二次原抑圧である(右端は、第二次原抑圧を経ての、幻想の式$ ◊ a である[($ → S1 → S2 → a)])。

二次原抑圧とは、古典的ラカンにおいては次の通り。

想定されたフロイトの法、エディプス⋯⋯。それは、初期ラカンが法へと作り上げたものだ。すなわち「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 la jouissance du corpsは飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる、( JACQUES-ALAIN MILLER, L'Autre sans Autre, 2013)

他方、ジャック=アラン・ミレールの用語「一般化排除」は、S(Ⱥ)/Ⱥにおける一次原抑圧にかかわる(ミレールは「一般化排除」=穴Ⱥとしている)。

直近のJean-Claude Maleval の注釈では次の通り。

人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。

Tout un chacun est obligé d'inventer ce qu'il peut, standard ou pas, universel ou particulier, pour parer au trou de la forclusion généralisée. (Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité, 2018、PDF)

一般化排除の穴 trou de la forclusion généraliséeとは何か。《「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de La/ femme》による穴Ⱥである。

すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。

forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose. (LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert 、2018)

そして二次原抑圧の段階では、上にあるように精神病の場合、「父の名」のシニフィアンS1の「排除」があり、神経症では「父の名」の導入をへて、幻想の式に向かう。

こうして二種類の原抑圧があることが判明する。

向井雅明氏の2010年の注釈では、言葉遣いは異なるが、この二種類の原抑圧を示している。

……注目すべき点は、私たちが通常の知覚を獲得したり、シニフィアンを使用して言語的表象行うことができたりするようになるには、ばらばらの印象から一つのまとまったイメージへの移行と、イメージからシニフィアン的構造化への移行という二つの翻訳過程、二つの契機を経なければならないという論理だ。一般的にラカン理論では二番目の移行に相当する原抑圧、もしくは父性隠喩の作用による世界のファルス化という唯一の過程のみで心的装置の成立をかんがえる傾向にあるが、たとえば精神病を父の名の排除という機制だけで捉えることは、精神病者においても言語による構造化はなされているという事実をはっきりと捉えられなくなってしまう。心的装置の成立過程に二つの大きな契機があるとかんがえると、主体的構造の把握がより合理的に行われるように思われる。(向井雅明『自閉症と身体』2010、PDF)

ーーラカン派プロパである向井氏でも2010年になってようやくこの認識に達しているのである。巷間のラカン派プロパでない、旧来の先入主に囚われたままの「評論家たち」・「学者たち」はおおむね、 いまだ《父性隠喩の作用による世界のファルス化という唯一の過程のみ》しか視野に入れずに、原抑圧をめぐって「破廉恥な寝言」を繰り返している。

以上、ようするに次の通り。




ラカン自身による穴Ⱥをめぐる発言をいくらか抜き出しておこう。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるcombler le trou dans le Réel ために何かを発明する inventons のだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。 (ラカン、S21、19 Février 1974 )
穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

最後の文が一次原抑圧にかかわる表現である。

⋯⋯⋯⋯

 ところで、ラカンはこの一次原抑圧に先立つ原抑圧、「出産外傷」に相当する原抑圧を語っている。ここでは仮に「ゼロ原抑圧」と名付けよう。

セミネール11には、《二つの欠如が重なり合う Deux manques, ici se recouvrent》とされ、一方の欠如は《主体の到来 l'avènement du sujet 》によるもの、つまりシニフィアンの世界に入場することによる象徴的去勢にかかわる欠如としている。そして、《この欠如は別の欠如を覆うになる ce manque vient à recouvrir,…un autre manque 》と。

この別の欠如とは、《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》であり、《生存在の到来 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産 la reproduction sexuée》において齎された欠如のこととある。

続いて同じ内容を重ねて強調している。このリアルな欠如は、生存在が性的な形で再生産された時に、己れ自身の部分として喪失した欠如である、と。《Ce manque c'est ce que le vivant perd de sa part de vivant : - à être ce vivant qui se reproduit par la voie sexuée》

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を象徴する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. (ラカン、S11、20 Mai 1964)

さらに後年(1975年)、ラカンはほぼこの胎盤の喪失と同じ考え方として捉えられるだろうことを原抑圧の用語を使って語っている。

・夢の臍 l'ombilic du rêve…それは欲動の現実界 le réel pulsionnel である。

・欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。

・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。

・臍とは聖痕である。l'ombilic est un stigmate

・臍とは身体の結び目 nœud corporelである。この結び目…注目すべき期間ーー九ヶ月のあいだーー生の伝達に奉仕し、その後(永遠に)閉じられる。

これが結び目と空洞とのあいだのアナロジー analogie entre ce nœud et l'orifice である。こうして洞は仕上げられる。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

これはほぼ出産外傷に相当する考え方である。

フロイト自身は、臨床的には出産外傷への対応に否定的ではあったが、フロイトもこの出産外傷を原抑圧という用語を使って語っている。

オットー・ランクは出生という行為は、一般に母にたいする(個体の)「原固着 Urfixierung」が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出生外傷 Geburtsakt こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。後になってランクは、この「原トラウマ Urtrauma」を分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。この仕事のためには、わずかに二、三ヵ月しか要しないはずである。ランクの見解が大胆で才気あるものであるという点には反対はあるまい。けれどもそれは、批判的な検討に耐えられるものではなかった。(……)

このランクの意図を実際の症例に実施してみてどんな成果があげられたか、それについてわれわれは多くを耳にしていない。おそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すことだけで満足する、といったことになってしまうのではなかあろうか。もちろん、そのようにしたために、消化活動が著しく短縮化される場合もことによったらあるかもしれないが。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

原初にあるのは母胎内での母子融合であり、究極のエロスあるいは原エロスと名付けうる。

エロス Eros は接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

こうして次のように図示できるはずである。



この図は発達段階的に記しているが、もちろんフロイトの「遡及性 Nachträglichkeit」概念、ラカンの言い方なら、《原初 primaire は最初 premier ではない》(S20)を視野に入れて読まなければならない。

最も簡潔に言えば、

潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ現勢化されうる。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan)

さて上の図を、下部から上部へという形で図示し直せば、次のようになる。



そして肝腎なのは、一次原抑圧と二次原抑圧のあいだに、いまだ父性隠喩には至っていないが何らかの意味作用を生み出す原「徴示システム système signifiant」としての「最小限の縫合 la conjonction minimale」( S3、11 Avril 1956)点があるということである。

この縫合点は父性隠喩以前の「父の名」のようなものである。ゆえにジャック=アラン・ミレールはーーいささか挑発的にーー次のように言い放っている。

精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰な現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre, 2013、PDF

これは巷間の寝言派の諸君、目を醒ませ! ということでもあるだろう。

なにはともあれ、父性隠喩のみの原抑圧しか考慮していないというのは、徹底的にバカ気ているのであって、仏ラカン派女流分析家の第一人者コレット・ソレールもーー今ここで記している文脈とはやや異なるがーー次のように他のラカン派分析家たちを嘲罵している。

わたしたちは見ることができます。他の分析家たちは、欲望を生み出すために、去勢不安にかかわる父が必要不可欠だという前提から始めて、精神病は欲望を締め出す la psychose excluait le désir、不安さえvoire l'angoisse 締め出すと結論しているのを。

しかし精神病の最も典型的人物像を観察したら、彼らが欲望を欠如させているなどという結論をどうやって支持しうるというのでしょう? むしろ欲望概念の見直しが必要なのです。(Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », 25/10/2013

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※付記

フロイトは1926年の段階では出産外傷について次のように記している。

……もっとも早期のものと思われる抑圧は 、すべての後期の抑圧と同様、エス内の個々の過程にたいする自我の不安が動機になっている。われわれはここでもまた、充分な根拠にもとづいて、エス内に起こる二つの場合を区別する。一つは自我にとって危険な状況をひき起こして、その制止のために自我が不安の信号をあげさせるようにさせる場合であり、他はエスの内に出産外傷 Geburtstrauma と同じ状況がおこって、この状況で自動的に不安反応の現われる場合である。第二の場合は根元的な当初の危険状況に該当し、第一の場合は第二の場合からのちにみちびかれた不安の条件であるが、これを指摘することによって、両方を近づけることができるだろう。また、実際に現れる病気についていえば、第二の場合は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現われ、第一の場合は精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)外傷性戦争神経症という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

ラカンのラメラ lamelle 神話も出産外傷にかかわる。ラメラは比較的よく知られているはずなので、ここでは引用ははぶくが、ラメラ(薄片)、それは《性的生物がその性において喪ってしまったものとの関係 rapport avec ce que l’être sexué perd dans la sexualité》(ラカン、S11)にかかわる。

ここでポール・バーハウの注釈を掲げておこう。

セミネール11においては、性的存在としての個人は、永遠の生の喪失を意味する(ラメラ神話を見よ)。…しかしセミネール17では享楽の喪失を齎すのはシニフィアンの導入である。これは一見、以前の立場の取り消しのように見える。だが私の読解では、それは正しくない。シニフィアンによって齎された喪失は、性的生の導入によって齎された喪失に上に覆い被さるのである。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe , Enjoyment and Impossibility、2006)


さらに中井久夫の出産外傷をめぐる叙述を掲げる。

幼児の世界は悲惨であるという考えと至福であるという考えとが、精神分析学者のあいだで対立している。前者の代表はラカン、サリヴァンであり、出産外傷を重視する人たちもそれに属する。後者にはわが土居建朗やバリントが挙げられる。これは、その人の自己史の主観的な回想によるところもあるのだろうが、いずれにせよ、幼児期は成人言語以前であるから決定的なことはいえないとされている。

「断続平衡論的発達観」にもとづけば最初の大きな断続=飛躍は出産である。この新しい世界の分節化に対応して空間開拓が開始される。それは、外界の開拓でもあるが、自己身体の空間開拓でもあり、心理的空間の開拓でもある。さらに時間の空間化・分節化もはじまる。これには内的なリズムと、それに応じた母親役の対応によって進行する。空間の開拓は日本の哲学者坂部恵、市川浩らが「みわけ」「ことわけ」として強調するように世界の分節化である。これと関連し並行的に進む過程があり、それは「名付け」naming である。「名付けること」によって、それ以前の混沌としたマトリックス的な世界の中にただよっているものが区分され明確となる。この過程をバリントは「物質」matter から「対象」object への移行と述べている。ここで「基盤」としてのマトリックス(語源的に「母」である)がなければ、空間開拓もありえないことを付言しておこう。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

「名付け」とあるが、これはラカン的には「父の諸名」のことである。

父の諸名 les Noms-du-père 、それは何かの物を名付ける nomment quelque chose という点での最初の諸名 les noms premiers のことである、(LACAN 、S22,. 11 Mars 1975)