2018年2月20日火曜日

S(Ⱥ) とS1という二つの超自我の徴

さて「三種類の原抑圧」で記したことをもうすこし鮮明に図示すれば、こうなる。



一次原抑圧の箇所を「母性固着」としたのは、フロイトの記述に則る。

『精神分析概説』草稿(死後出版、1940年)にはこうある。

・母へのエロス的固着 erotischen Fixierung an die Mutter

『モーセと一神教』(1939年)にはこうある(正確な引用は、参照)。

・トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma
=反復強迫 Wiederholungszwang
=動かしえない個性の徴 unwandelbare Charakterzüge

フロイトの「固着」(≒原抑圧)とはラカン概念の「サントーム」と等価であるのは、 「ラカンのサントームとは、フロイトの固着のことである」で見た。

そしてサントームΣとは、S(Ⱥ) のことである。

我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール、「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN)

ゆえにトラウマ Ⱥ への固着とは、 S(Ⱥ)/Ⱥである。

このȺは、穴 trou とも呼ばれる。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を生む。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

そしてS(Ⱥ)は穴 Ⱥ のシニフィアンであるが、Ⱥとは何か?


ラカンは後期の教えにおける⋯⋯穴Ⱥ とは、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうでは なく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au reste であり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sens である。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001)

ーー「組合せ規則の消滅」を意味する穴Ⱥとは「非関係 non-rapport」あるいは「非全体pastout」である。

穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)
非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)

「女性の享楽」は「身体の享楽」と等価な表現であり(参照)、これは自閉症的享楽でもある。《身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。》(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

そして穴とは原抑圧(固着)にかかわる。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


さらにサントームとは「一のようなものがある y'a d'l'Un」、あるいは「一のシニフィアン le signifiant « Un »」とも等しい。

le signifiant « Un », pour lequel je vous ai, l'année dernière, suffisamment semble-t-il, frayé la voie à dire : « y'a d'l'Un ».(Lacan, S20, 19 Décembre 1972)
「サントーム le Sinthome」……それは 「一のようなものがある Yadlun」と同一である(ジャッ ク=アラン・ミレール2011, XIV. le point de capiton de Montpellier / tripartition de consistances cliniques)

そして「この一のようなものがある」とは、身体の自動的享楽である(現在、ラカン派内では、この自動的享楽 auto-érotisme は自閉症的享楽 jouissance autiste とも呼ばれている)。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。

・身体の自動的享楽 auto-jouissance du corps(は、「一のようなものがある Yad'lun」と「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel 」の両方に関連づけられる。(ミレール2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)

「一のようなものがある y'a d'l'Un」、あるいは「一のシニフィアン le signifiant « Un »」は、ミレールによって、「ひとつきりのシニフィアン le signifiant tout seul」、「ひとつきりの一 l’Un-tout-seul」と言い換えられている(参照)。

それは、「ひとつきり」を強調するためである(下記の文にS1とあるが父性隠喩にかかわるS1ーーS2と関係をもつS1ーーとは異なることに注意しなければならない。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller

こうして「一のシニフィアン」=サントーム=固着は、反復的享楽にかかわる刻印と解釈されているのが判然とする(参照:原抑圧・原固着・原刻印・サントーム)。

これはフロイト『モーセと一神教』の記述と等価である。

・トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma
=反復強迫 Wiederholungszwang
=動かしえない個性の徴 unwandelbare Charakterzüge


一次原抑圧と二次原抑圧は、二種類の超自我にもかかわる。

超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。Das Über-Ich ist Nachfolger und Vertreter der Eltern (und Erzieher), die die Handlungen des Individuums in seiner ersten Lebensperiode beaufsichtigt hatten(フロイト『モーセと一神教』3.2.4 Triebverzicht、1939 年)




標準的には、最初の大他者は母であり、二番目の大他者は父である。そして原初の母なる大他者ーー、《母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter》(モーセと一神教』1939年)

この代替されるというフロイトの表現はラカン派観点からは、二次原抑圧、S1/S(Ⱥ)である。

ラカンは最初期の論文で既に、《太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque》(Lacan, LES COMPLEXES FAMILIAUX ,1938)としている。

そしてセミネール5にはこうある。

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (ラカン, S5, 15 Janvier 1958)

半年後にまた「母なる超自我」に触れており、「原超自我」という表現をしている。

母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における純粋で単純な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)


こうして超自我が、一般的に思われているような、「父的なもの」だけではないことが判明する。それは原抑圧が父性隠喩だけではないのと同様である。

いままであまりにエディプスの父ばかりが強調されてきたが、最晩年のフロイトは別の思考をしている。最初の「母なる誘惑者」が〈あなた〉に刻印するのである、《動かしえない個性の徴 unwandelbare Charakterzüge》を。これが〈あなた〉の原超自我の徴である。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、彼(女)を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。その母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse草稿、死後出版、1940、私訳)

ここではララングとサントームの関係には煩雑になるので触れなかったが、ララングこそ母の徴の最も典型的なものである。 《サントームは、母のララングに起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle》(Geneviève Morel 2005 ーー参照:「ララング定義集」)

最後にニーチェの言葉を引用しよう。

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

フロイトにとって、ニーチェの「永遠回帰」とは、快原理の彼岸にある「反復強迫 Wiederholungszwang」、「運命強迫 Schicksalszwang」 である。そしてそれが「動かしえない個性の徴 unwandelbare Charakterzüge」という母性固着にかかわる。

人は次の叙述をじっくり眺めて、ニーチェの原超自我に思いを馳せねばならない。

わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつっている。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだ―つまり、わたしの最高の瞬間を狙ってin meinen höchsten Augenblicken くるのだ…。そ のときには、毒虫に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした 予定不調和 disharmonia praestabilita を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ。― (ニーチェ『この人を見よ』--妹エリザベートによる差し替え前の版 Friedrich Wilhelm Nietzsche: Ecce homo - Kapitel 3

 そう、《わたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin》とは何だったのか、と。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrinの名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)

《ひとがものを書く場合、分かってもらいたいというだけでなく、また同様に確かに、分かってもらいたくないのである。およそ誰かが或る書物を難解だと言っても、それは全然非難にならぬ。おそらくそれが著者の意図だったのだーー著者は「猫にも杓子にも」分かってもらいたくなかったのだ。

すべての高貴な精神が自己を伝えようという時には、その聞き手をも選ぶものだ。それを選ぶと同時に、「縁なき衆生」には障壁をめぐらすのである。文体のすべての精緻な法則はそこ起源をもつ。それは同時に遠ざけ距離をつくるのである。》(ニーチェ『悦ばしき知識』)


ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。

Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden." (フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 1908年 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung)
ニーチェについていえば、彼の予見と洞察とは、精神分析が骨を折って得た成果と驚くほどよく合致する人であるが、いわばそれだからこそ、それまで,長い間避けていたのだった。(フロイト『自己を語る』1925年)