2018年2月3日土曜日

鼻孔をくすぐる担々麺の香

そもそも肉体に宿る感情を、一体どうすれば言葉にすることができるといのだろうか? たとえばあそこの空虚さを、どうように表現すればいいのか?(リリーの眺める客間の踏み段は恐ろしく空虚に見えた。)あれを感じ取っているには身体であって、決して精神ではない。そう思うと、踏み段のむき出しの空虚感のもたらす身体感覚が、なお一層ひどくたえがたいものになった。(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』)

っていうわけなんだろうな、

それとも、甘い囁き派なんだろうか

創作の過程は最初は甘美ないざないである。創作者への道もまた、多くは甘美ないざないである。それは、分裂病のごく初期にあるような、多くは対象の明解でない苦悩から脱出するためのいざないであることもあり、それゆえに、このいざないは、多く思春期にその最初の囁きを聞くのである。

多くの作家、詩人の思春期の作品が、後から見れば模倣あるいは幼稚でさえあるのに、周囲が認め気難しい大家さえも激賞するのはこの甘美ないざないをその初期の作品に感得するからではないかと私は疑っている。思いつく例はボール・ヴァレリーの最初期詩編あるいはジッドの「アンドレ・ワルテルの手記」である。このいざないがまだ訪れなかった例はリルケが初期に新聞に書きまくっていた悪達者の詩である。リルケはその後に一連の体験によってこのいざないを感じて再出発しえた希有な詩人である。そうでない多くの作家は一種の芸能人であって、病跡学の対象になりえないほど幸福であるということもできる。芸能人に苦悩がないとはいわないが、おそらくそれは別種の苦悩である。多少の類似性はあるかもしれないが。

さらに多くの人は、この一時期にかいまみた幸福な地平を終生記憶にとどめていて、己も詩人でありえたのだという幻想を頭の隅に残して生涯を終える。(中井久夫「創造と癒し序説」)

「寝台の上に降り出す雪の翳った白さに耐えながら 充血した性器を押しひらく」派ではまさかあるまい?


一人称の物語はここで終る もう手袋のほころびやテ
ーブルの上の焼け焦げをかすめては消えてゆく 曇った
眼差しだけしか残っていない 濡れた壜の口のあたりを
たゆたう 倦み疲れた冬の光だけしか残っていない 波
のざわめき 鳥の声 石灰がにおう世界の夕暮 書かれ
たものはもう声にはのらないから「うしろへ」とか「あ
とで」といったつつましい嘘をひっそり呟くだけだ「蒼
ざめた女の薫る髪」や「唾液に光る山狼の白い牙」を裏
側からなぞりかえし 消しつくし 眼前をよぎって無意
味に堕ちてゆく濡れた光景から目を逸らすだけだ 寝台
の上に降り出す雪の翳った白さに耐えながら 充血した
性器を押しひらく 欲望もなく 熱もなく 掃海作業の
ようにすすむ さめた劇 牛乳がしたたる小さな尻 掘
り起こされたばかりの百合の球根 何ひとつ口にせず
ただひらいた両手を暗い天候の愛撫にゆだねる 濁った
時間 媚薬のように 浚渫機はゆっくりとまわり 静脈
のなかに朽ちた溺死者を探す 骨と骨とが響きあう つ
めたい透視図法 魚のひれ 藻 息 彼は彼女が彼らの
   彼女に彼らを彼と あるかなきかの明るみに目を凝ら
す 修辞は狂い 構文も曖昧にただよいはじめ よどん
だ室内が窓の外に流れ出し すべてが無色に溶けてゆく
  手と足は相殺しあい 髪は水にそよぎ 失墜や遭遇や
別離といった熱すぎる文字が削り落とされてゆく 歌っ
てはならぬ楽譜 投げてはならぬ石 揺れる吊り橋 視
界を埋めつくす水母の死骸 それは物語の終焉ではなく
て 終焉の物語のはじまりにすぎないのか 愛していま
す あなたを愛しています あなたを愛しています あ
なたを愛しています あなたを

ーー松浦寿輝『ウサギのダンス』より

ああ
愛していま
す あなたを愛しています あなたを愛しています あ
なたを愛しています あなたを


どの語彙を選ぶかどの構文を採るか、その選択の前で迷う自由はあっても、新たな選択肢そのものを好き勝手に発明することは禁じられているのだから、語る主体としての「わたし」が自分自身の口にする言葉に対して発揮できる個性など高が知れている。しかし、実はこの制約と不自由こそ、逆に「わたし」が独我論的閉域から解放されるために絶好の契機なのである。どんな些細な言葉一つでもそれを唇に乗せたとたん、「わたし」は他者のシステムに乗り入れることになる。それを言い表わそうとしないかぎり「わたし」自身に属する独自な感覚であり思考であると思われたものも、口に出すやいなや如何ともしがたく凡庸な言葉の連なりとして「わたし」自身の鼓膜によそよそしく響き、幻滅を味わうというのはよくある体験なのではあるまいか。

自分の奥底まで届いた唯一かけがえのない貴重な出来事を言葉にしようと試みて、語れば語るほど言葉がよそよそしく遠ざかってゆくといったもどかしさが、われわれをしばしば苛立たせていはしまいか。だが、このよそよそしさとこのもどかしさこそ、言語の実践を彩っているもっとも豊かなアウラと言うべきものなのである。よそよそしさの溝を何とか跨ぎ越えよう、触れえないものに何とか触れようとして虚空をまさぐる宙吊りの時間のもどかしさに耐えながら、「わたし」は言葉を欲望する。言葉という他者に刺し貫かれることで豊かになりたいと願うのだ。

そんなとき、言葉は、まさしくあの「わたし」をうっとりさせる春宵の風の正確な等価物となる。むしろ、受精の機会を求めて風に乗って飛散する花粉のような何ものかと言うべきかもしれぬ。そして、よそよそしさともどかしさそのものを快楽に転じながら「わたし」が辛うじて声に出したり紙に書きつけたりしえた発語の軌跡とは、あたかもこの濃密な花粉を顔いっぱいに浴びてしまった人体に現われる過剰な免疫反応としての花粉症の症状にでも譬えられるかもしれぬ。他者のシステムとしての言語を前にした発語のもどかしさの快楽とは、眼の痒さやくしゃみを堪えながらしかし鼻孔をくすぐる花の香に陶然とすることをやめられずにいる者の、甘美なジレンマに似ている。(松浦寿輝「官能の哲学」)

「自分の奥底まで届いた唯一かけがえのない貴重な出来事を言葉にしようと試みて、語れば語るほど言葉がよそよそしく遠ざかってゆくといったもどかしさ」に苛立ってるんだろうけどね


幼年

ぼくのかなしくふくらんでゆくかわいたヒヤ
シンスの球根が風にむかってひらかれてねむ
たい午後が真冬のさむい紅色のなかでくらや
みに溶けこみかけているのだろう,もう覚え
ていないそんなとある夕暮またべつの夕暮ま
たいつの夕暮ぼくのかなしくふくらんでゆく
かわいたヒヤシンスの球根のなかでぼくはく
つがえりうらがえってからだを丸めするどい
刃の鈍色の一閃をゆめみながら二組の不幸な
双子や魚や欠けた水甕の物語を読んでいるの
だろう,うしなわれた名がことばの辺境にど
こまでもただよいつづけてかたよった信じら
れないほどの響きの不在をこだまさせるぼく
たちのあなたたちのにおいやかに傷つき甘美
に裂けた物語につつまれてぼくのかわいたヒ
ヤシンスの球根はかなしくふくらんでゆくの
だろう,目をあげると葉の落ちた枝がざわざ
わゆれて月がのぼりぼくがひたっている浴槽
の水のなかをふきすぎる重い風が豊かにたわ
んだやさしい空虚のかおりを運んでくるのだ
ろう,夜のなかにもうなだれおちかけている
ぬるい呼気をてのひらにすくいあげてその飴
色ののこりかすを体中にそそぎかけているう
ちにぼくのかなしくふくらんでゆくかわいた
ヒヤシンスの球根がやがてうっすらいろづい
てもぼくの瞳と舌はいつまでも透きとおった
ままなのだろう


ーーいやあ、ちょっといいな

とはいえボクは「通俗的」だから
こっちのほうが好みかも


坦々麺

何もかもつまらんという言葉が
坦々麺を食べてる口から出てきた
俺は本当にそう思ってるのかと
心の中で自問自答してみるが
詩人の常ではかばかしい答えはない
言葉は宙に浮いている でなきゃ
地下で縺れている
俺はそれを虚心に採集する
何もかもつまらんもそういう類いか
本心も本音も言葉の監獄につながれて

いち足すいちはにいいと言わせて
みんなの口角に微笑の形をつくらせる
笑みが本心であろうとなかろうと
無邪気な言葉に釣られて筋肉が動く
ひとり仏頂面でspontanceousの訳語を
頭の中でいじくり回してる奴が俺だ
そんな昔の記念写真が脳裡に浮かんで
思いがけず口から飛び出した言葉が
真偽を問わず詩を始めてしまう
坦々麺を食べながら詩人は赤面する


「思いがけず口から飛び出した言葉が/真偽を問わず詩を始めてしまう」なんてね

エリオットは、詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだという。(中井久夫「顔写真のこと」)

ま、もちろんリルケのいうようなのが理想かも、な

だが詩というものは、若いころに書いたものにろくなものはない。それには待つということが大切だ。そうして一生かかって、それもたぶん長い一生を倦まずたゆまず意味と甘味とを集めねばならない。その果てにようやくたぶん十行の良い詩を書くことができるのであろう。なぜなら、詩はひとの言うように感情ではない(感情ならはじめから十分あるわけだ)、――それは経験なのだ。一行の詩句を得るためには、たくさんの都会を、人間を、物を見なければならない。けものたちを知り、鳥の飛び方を感じ取り、朝小さな草花のひらく身ぶりを知らなければならない。はじめての土地の、なじみない道のことを、思いがけない出会いや、もう久しくその近づいてくるのが見えていた別れを思い出すことができねばならない、――まだよく意味が明らかにされていない幼年時代のことを、また、両親がぼくたちをよろこばせようとして持って来たものが、ぼくたちにはなんのことかわからず(それはほかの子どもならよろこぶにちがいないものだった)、両親の心を傷つける破目になってしまった思い出や、じつに奇妙な始まり方をして、思いがけない深い重い変化を伴う子どもの病気のことや、ひっそりとつつましい部屋のなかですごす日々のことを、海辺の朝を、海そのものを、多くの海のことを、高い天空をざわめきながら、星々とともに飛び去って行った旅の幾夜さのことを、――そしてたとえ幸いにも、そういう一切のことを思い出すことができても、それはまだ十分ではない。ひとはまた、どの一夜も他の夜に似ることのなかった多くの恋の夜の思い出を持ち、陣痛にあえぐ女たちの叫びと、産み終えてかろやかに、しろじろとして眠っている女たちの思い出を持たねばならない。しかしまた、死んで行く人々の枕辺にはべり、死んだ人とひとつの部屋にすわって、あけた窓から高くなり低くなりしながらきこえてくる外の物音に耳傾けた経験がなくてはならない。(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)