2018年2月2日金曜日

臨床的ー哲学的ラカン派のあいだの軋轢

現在臨床的ラカン主流派と哲学的ラカン派のあいだでは、現実界の捉え方に大きな齟齬がある。それはジジェクによる、現在のジャック=アラン・ミレールの考え方ーー《象徴界の外部の「純粋な」現実界 the “pure” Real、象徴界によっていまだ汚染されていない或る現実界 a Real に向けてのミレールの探求》ーーは「厳密なラカン派の立場からは、何かが途轍もなく間違っている 」という批判に収斂される。

この批判は、わたくしの知る限り、International Žižek Studies Conference on May 27th 2016」において最初に現れる(「AM I A PHILOSOPHER? Slavoj Zizek 2016」)。そしてジジェクの2017年の書に再掲されている(Incontinence of the Void: Economico-Philosophical Spandrels By Slavoj Žižek 2017)。

ジジェクによるミレールの批判「何かが途轍もなく間違っている」であるならば、ジジェクのほうこそが何かが途轍もなく間違っている可能性を疑わなければならない、ことになる。

⋯⋯⋯⋯

さていくらか議論を迂回して、臨床的ラカン派に主に依拠しているだろう、日本のすぐれた若きラカン派松本卓也氏の『人はみな妄想する』から引用してみよう。

とはいえ、わたくしはこの書を読んでいないことを断っておかねばならない。つまりネット上から拾ったものであり、その前後関係のニュアンスはわからないし、正確な引用か否かも不明である。

①まずコレット・ソレールの引用が『人はみな妄想する』にはあるようだ。

 「現実界におけるシニフィアン」という精神病現象の定義には、シニフィアンは象徴界を定義するためには十分ではないということがすでに示されている。象徴界はシニフィアンの"連鎖"によって定義されるのであって、隠喩(あるシニフィアンを他のシニフィアンで置き換えること)はその連鎖の流儀のひとつである。 by ソレールの解説  

②次にこのコレット・ソレールの見解を受けてだろう、次の記述がある。

シニフィアンはそれ自体では象徴的なものではない。シニフィアンが象徴的なものであるといえるのは、シニフィアンが他のシニフィアンと連鎖しているかぎりでのことである。反対に、シニフィアンから切り離されたシニフィアンは、現実的なものである(例えば精神病者にとってのシニフィアンはこれである)。 by 松本卓也 p.227

※「現実的なもの」とあるが、これはおそらく「現実界的なもの réel」と言いたいのだろうと判断する。そう捉える理由は、すこし後に引用するコレット・ソレール文にある。

③さらに、「ラカンのサントームとは、フロイトの固着のことである」の末尾で付加的に引用した、古谷利裕氏の「偽日記」からの二文である。

(…)自閉症者がもちいる常同的・反復的なシニフィアンは、原初的な言語であるララング(=自体性愛的な享楽をまとったトラウマ的なシニフィアン)そのものを私たちに呈示していると考えられる。自閉症者は、いわばララング(S₁)というトラウマ的なシニフィアンに出会い、それ以降、言語(S₂=知)を獲得しないことを自ら選択し、ララングの場所に立ち止った子供たちである。(363ページ)
(ミレールの)逆方向の解釈によって取り出されるのは、他の誰とも異なる、それぞれの主体に固有の享楽のモード、すなわち、「ひとつきりの<一者>」と呼ばれる孤立した享楽のあり方である。精神病の術語をもちいれば、それは他のシニフィアンS₂から隔絶された、「ひとつきりのシニフィアンS₁」としての要素現象であり、自閉症の用語をもちいれば、それはララング(S₁)を他のシニフィアン(S₂)に連鎖させることなくララング(S₁)のまま中毒的に反復する事に相当するだろう。いずれの場合でも、そこで取り出されているのは無意味のシニフィアンであり、そこに刻まれている各主体の享楽のモードである。(松本卓也『人はみな妄想する』)

⋯⋯⋯⋯

ここで松本氏の①②③のそれぞれについていくらかみてみよう。


【①について】

①のコレット・ソレールの記述は、どこからかは正確にはわからないが、おそらく次の内容だろう(ララングをめぐっては、まず「ララング定義集」をみよ)。

ララング Lalangue は象徴界的 symbolique なものではなく、現実界的 réel なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外 hors chaîne のものであり、したがって意味外 hors-sens にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne)。

…一方でララングは、身体が自らを享楽する現実界 le réel dont le corps se jouit において機能する。…他方でララング は、享楽の経験によって置き残された記号を貯蔵しrecueillant les signes laissés par les expériences de jouissance、それ自身が享楽の対象 objet de jouissanceとなる。

Lalangue, ce n’est pas du symbolique, c’est du réel. Du réel parce qu’elle est faite de uns, hors chaîne et donc hors-sens (le signifiant devient réel quand il est hors chaîne). […] D’un côté, lalangue opère sur le réel dont le corps se jouit […] d’un autre côté, recueillant les signes laissés par les expériences de jouissance, elle devient elle-même objet de jouissance. (Soler. C., Lacan, l’inconscient réinventé, 2009)


【②について】

②の松本卓也氏の記述は、ほぼこのコレット・ソレールの文と等価である。《シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne》

シニフィアンはそれ自体では象徴的なものではない。シニフィアンが象徴的なものであるといえるのは、シニフィアンが他のシニフィアンと連鎖しているかぎりでのことである。反対に、シニフィアンから切り離されたシニフィアンは、現実的なものである(松本卓也)

①のコレット・ソレール文にある「現実界におけるシニフィアン」とは、たしかに精神病のセミネールⅢに「現実界のなかのシニフィアンsignifiant dans le réel」とある。

ところでラカンのセミネールⅣ、Ⅴには 「象徴界のなかの現実界 le réel dans le symbolique」、そして「象徴的現実界 le réel symbolique (Wirklichkeit symbolique)」という表現がある(この時期のラカンのréel は、後のRéel、超越的現実界(S7)や超越論的現実界(S17)ではなく、現実realityを表している場合があるので要注意だが)。

そして「若手ラカン派の新しい世代のリーダー the leader of a new generation of ‘young Lacanians」とも呼ばれることもあるロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesaーージジェクはとてもはやい段階で(ロレンゾがまだ二十歳代のとき)彼を紹介したーーは、2007年の書で次のように記している。

現実界のないの象徴界はない。そして象徴界のない現実界はない。(……)

象徴界のなかの現実界 le réel dans le symbolique がある限りにおいてのみ、象徴界は象徴的である。 象徴的現実界 le réel symboliqueがある限りにおいてのみ、現実界は現実界的である。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、2007)

さらには、《すべての現実界のすべては、象徴界的現実界に他ならない。all of the Real is nothing but the Real-of-the-Symbolic.》( Lorenzo Chiesa、2007)ともある。

彼が二十歳代に記した論文には次のようにもある。

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa)

これはジジェクの現実界の捉え方と等価である。

われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012)

ここでコレット・ソレールの直近の現実界の捉え方を引用してみよう。"Avènements du réel" Colette Soler, 27 mai 2017 からである。

精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字-固着 lettre-fixion、文字-非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である…

現実界の定義のすべては次の通り。常に同じ場 toujours à la même place かつ象徴界外 hors symbolique にあるものーーなぜならそれ自身と同一化しているため car identique à elle-mêm--であり、反復的 réitérable でありながら、差異化された他の構造の連鎖関係なし sans rapport de chaîne à d'autre Sa のものである。したがってラカンが現実界的無意識 l'inconscinet réel について注釈した二つの定式の結束としてある。すなわち「一のようなものがある y a de l'Un」と「性関係はない "y a pas" du RS」。  (コレット・ソレール、Avènements du réel、2017)

 ーーこの文の最後でソレールがいっているのは、ラカンの次の文にかかわる。

《Yad'lun 》とは《非二 pas deux》であり、それは即座に《性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel 》と解釈されうる。 (ラカン、S19、17 Mai 1972)

さらにソレール曰くの「固着としての症状Le symptôme, comme fixion」については、「固着ゆえに性関係はない」を参照のこと。

さて以上の引用で判然とするように、コレット・ソレールの現実界の捉え方、さらにそれに依拠しているだろう松本卓也氏の現実界の捉え方は、ジジェクやロレンゾ観点からは何かが途轍もなく間違っているということになる。

ジジェクの2012年の段階での現実界の定義文は次の通り。

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に内在的なものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pas-tout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。

存在(現実) [being (reality)] があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳ーー「二つの現実界」)


【③について】

さて最後に松本卓也氏の③の文である。

まずそこに現れる「ひとつきりの<一者>」「ひとつきりのシニフィアンS₁」とは、ミレールの表現である。

「ひとつきりのシニフィアン le signifiant tout seul」とは1996年の「逆方向の解釈 L'interprétation à l'envers」に現れ、最近では「ひとつきりの一 l’Un-tout-seul」と言っている。

これはラカンの「一のようなものがある Ya d’l’Un」、あるいは「一のシニフィアン le signifiant « un »」の言い換えである。

le signifiant « Un », pour lequel je vous ai, l'année dernière, suffisamment semble-t-il, frayé la voie à dire : « y'a d'l'Un ».(Lacan, S20, 19 Décembre 1972)

「一のようなものがある Ya d’l’Un」のいくらかの詳細は、「固着ゆえに性関係はない」に記した。ここではくり返さない。

この「一のようなものがある」は、後期ラカンの核心概念サントームのことでもある(参照:「ラカンのサントームとは、フロイトの固着のことである」)。

「サントーム le Sinthome」……それは 「一のようなものがある Yadlun」と等価である(ジャック=アラン・ミレール2011, XIV. le point de capiton de Montpellier / tripartition de consistances cliniques

さらにまた上に引用したコレット・ソレール 2017の、「固着としての症状 Le symptôme, comme fixion」「シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance」としての症状のことでもある。

松本氏が「ララング(S₁)というトラウマ的なシニフィアン」と記しているのも同様に「ひとつきりのシニフィアン」にかかわる(参照:「ララング定義集」)

ララングは享楽を情動化する。…ララングは象徴界ではなく、現実界にある。現実界、なぜならララングは、シニフィアンのネットワークの外部にあり、つまり意味の外部にあるから(シニフィアンは、ネットワークの鎖の外にあるとき、リアルになる)。そしてララングは享楽と謎の混淆をする。…ララングは意味のなかの穴であり、トラウマ的である。…ラカンは、ララングのトラウマをフロイトの性のトラウマに付け加えた。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )
現実界の症状、それは意味から切断されているが、言語からは切断されていない。現実界の症状は、「言葉の物質性 motérialité」と享楽との混淆であり、享楽される言葉あるいは言葉に移転された享楽にかかわる。(コレット・ソレール2009、L'inconscient Réinventé )

この言葉の物質性 motérialité」としてのララングが、コレット・ソレール、そしてそれに依拠する松本卓也氏によれば「現実界のシニフィアン」ということになる。

ところで最晩年のラカンはララングについて次のように言っている。

想像界の身体がある。
象徴界の身体がある。それはララング lalangue である。
現実界の身体がある。我々はこれについて如何に生ずるのか分からない。

il y a :
- un corps de l'Imaginaire,
- un corps du Symbolique, c'est lalangue,
- et un corps du Réel dont on ne sait pas comment il sort. (Lacan, S24、16 Novembre 1976)

とはいえ同じセミネール24で《ララングは…現実界を作る faire-réel》(19 Avril 1977)、《ララングは、現実界的なもの le Réel ment だろうか? 》(10 Mai 1977)ともある。

ラカンも最後まで彷徨ったのである。ララング、すなわち「一のシニフィアン」が、象徴的なものなのか、現実界的なものなのか、について。

ここでララングについての、ジャック=アラン・ミレールの表現を抜きだそう。

真のトラウマの核は、誘惑でも、去勢の脅威でも、性交の目撃でもない。…エディプスや去勢ではないのだ。真のトラウマの核は、言葉 la langue(≒ララング)との関係にある。(ミレール、1998 "Joyce le symptôme" )
身体における、ララングとその享楽の効果との純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps(ミレール、2012、Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP par JACQUES-ALAIN MILLER

そしてミレール派の、おそらくナンバースリーであろう、Pierre-Gilles Guéguenによれば次の通り。

肉の身体 le corps de chair は生の最初期に、ララング Lalangue によって穴が開けられる troué 。我々は、セクシャリティが問題になる時はいつでも、この穴ウマ troumatism =トラウマの谺を見出す。 (穴ウマ troumatisme =トラウマ、ラカン、S21、19 Février 1974)

サントームの身体 Le corps du sinthome、肉の身体…それは常に自閉症的享楽 jouissance autiste・非共有的享楽を意味する。(Pierre-Gilles Guéguen, 2016、Au-delà du narcissisme, le corps de chair est hors sens)
ラカンは言語の二重の価値を語っている。無形の意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen,2016, PDF

松本氏の③の文に、《自閉症者がもちいる常同的・反復的なシニフィアンは、原初的な言語であるララング(=自体性愛的な享楽をまとったトラウマ的なシニフィアン)そのもの》、あるいは「ひとつきりの<一者>」は《精神病の術語をもちいれば、それは他のシニフィアンS₂から隔絶された、「ひとつきりのシニフィアンS₁」としての要素現象であり、自閉症の用語をもちいれば、それはララング(S₁)を他のシニフィアン(S₂)に連鎖させることなくララング(S₁)のまま中毒的に反復する事》とあった。これは上に引用したPierre-Gilles Guéguenの注釈の文脈のなかにあるのは明瞭だろう。

さてここで中期までのラカンのシニフィアンの定義文をいくつか掲げてみよう。

シニフィアンは、対象を指示しない記号である le signifiant est un signe qui ne renvoie pas à un objet …シニフィアンはまた不在の記号である Il est lui aussi signe d'une absence…

シニフィアンは、他の記号と関係する記号である c'est un signe qui renvoie à un autre signe。 言い換えれば、二つ組で己れに対立する pour s'opposer à lui dans un couple (ラカン、S3、 14 Mars 1956)
すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(意味=徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)
見せかけ、それはシニフィアン自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (Lacan, S18, 13 Janvier 1971)

見せかけについてのミレールの注釈は次の通り。

すべてが見せかけ(仮象 semblant)ではない。或る現実界 un réel がある。社会的つながり lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant(欲動の身体)である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない」という現実界へ応答するシステムである。(ミレール 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANTーー「人はみな妄想する」の彼岸

つまり見せかけとは象徴界のことである。

そして、

現実界とは、見せかけに穴を開けることである。ce qui est réel : ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)

これがいわゆる中期までのラカンである。

これに対して「現実界のシニフィアン」とは、コレット・ソレールを再掲すれば、

ララング Lalangue は象徴界的 symbolique なものではなく、現実界的 réel なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外 hors chaîne のものであり、したがって意味外 hors-sens にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる )。(Soler. C., Lacan, l’inconscient réinventé, 2009)

すなわち中期までの「科学的な」ラカンのシニフィアンの定義とは相反するものである。

上にかかげた定義文のなかで、唯一、現実界のシニフィアンの定義にも当てはまり得るのは、《すべてのシニフィアンの性質はそれ自身を徴示することができないことである》(S14)だろう。

ひとつきりのシニフィアンとしてのララング、《「言葉の物質性 motérialité」と享楽との混淆》としてのララング、つまり「一のようなものがある Y'a d'l'Un」も、それ自身とは一致しないシニフィアンであるのにはかわりない。

ミレール派肝入りの論文集「L’inconscient et le corps」(2102-2013)の冒頭を飾るHélène Bonnaud の論文にはこうある。

ラカンがサントーム sinthome を「一のようなものがある Y'a d'l'Un」に還元 réduit した時、「Y'a d'l'Un」は、臍・中核としてーー シニフィアンの分節化の残滓のようなものとして--「現実界の本源的繰り返し réel essentiel l'itération」を放つ。ラカンは言っている、「二」はないと。この繰り返しitération において、自ら反復するse répèteのは、ひたすら「一」である。しかしこの「一 」は身体ではない。 「一」と身体がある Il y a le Un et le corps。これが、ラカンが「シニフィアンの大他者 l'Autre du signifiant」を語った理由である。シニフィアンの大他者とは、身体である。すなわちシニフィアンの彼岸には、身体と享楽がある il y a le corps et sa jouissance。 (Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse Hélène Bonnaud、2012-2013, PDF

 すなわち現実界のシニフィアンとされるものでさえ、《「一」と身体がある Il y a le Un et le corps》《シニフィアンの彼岸には、身体と享楽がある il y a le corps et sa jouissance》のである。

常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)  (ラカン、S20、16 Janvier 1973)

ここでラカンのセミネール23には《文字対象a (lettre petit a)》という表現があるのを思い起こしておこう。

そして哲学的ラカン派ロレンゾの文を引こう。

我々は強調しなければならない、ラカンがいかに無意識を理解したかを。彼は二つの用語を使っている。記号 symbole 、意味作用の原因としてのシニフィアン、そして、文字 lettre 、純シニフィアン signifiant pur としてのシニフィアンの二種類である。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa 『主体性と他者性Subjectivity and Otherness』2007)

わたくしは(今のところ)、ひとつきりのシニフィアン、あるいはララングであってさえ、単純に現実界のシニフィアンではなく、ロレンゾ曰くの《すべての現実界のすべては、象徴界的現実界 le réel symbolique (Wirklichkeit symbolique)に他ならない》の文にある「象徴界的現実界 le réel symboliqueのシニフィアン」とできないものか、と考えている。

事実、ミレールでさえこう記している。

古典的ラカンにおいて精神生活の始まりは、ラカンが想像界と呼んだものだ。誰もが想像界とともに始まると想定される。これは古典的ラカンだ。それは疑わしい。というのは、言語の出現を遅らせているから。

事実としては、主体は、最初から言語に没入させられいる。だが、古典的ラカンにおいて、精神病についての彼の古典的テキストにおいて、さらに『エクリ』のほとんどすべてのテキストにおいて--ひどく最後のテキストのいくつかを除いてーー、ラカンは、主体の根本次元を想像的次元に付随したものとして「構築」した。(……)

私は「構築」と言った。というのは、あなたは、言語の抽象作用を理解しなければならないから。言語は既に最初からある。(Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、2008 私訳、PDF

この言語は象徴界、あるいはすくなくとも象徴界のなかの現実界である。

ロレンゾの注釈ならば次の通り。

子供は、エディプスコンプレックス(の消滅)を通して象徴界への能動的な入場をする前に、文字 letterとしての言語、言語の現実界 Real-of-language に関係している。人は原核心を思い描くことを余儀なくされる。その原核心とは、すなわちペットのように言語のなかに全き疎外されている状態である。これはたんに神話的な始まりを表すだけに違いないとはいえ、それにもかかわらず、子供は、いかに話すかを学んだのちも、(文字としての)言語によって話され続ける。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007)

ロレンゾにとって「 言語の現実界 Real-of-language」とは《象徴的現実界Wirklichkeit symbolique》(ラカン、S4)のことである。


やはりシニフィアンは象徴界的なものではなかろうか?

そうすれば次のラカン文も素直に読める。

シニフィアンは享楽の原因である。シニフィアンなしでどうやって身体のこの部分に接近できよう?Le signifiant c'est la cause de la jouissance. Sans le signifiant, comment même aborder cette partie du corps ? (ラカン、S20, 19 Décembre 1972)

とはいえ、ミレールやソレールは、ラカンのアンコールの最後での次の文に依拠して、現実界的なシニフィアンを強調するようになっている(とくにソレールはミレール以上にそうである[参照:二つの現実界])。

現実界、それは「話す身体」の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(Lacan,S20, 15 mai 1973 )

だが話す身体の神秘としてのララング、ひとつきりのシニフィアンを象徴的現実界(象徴界のなかの現実界)として扱ってはじめて、ドゥルーズの名高い反復の定義とラカンとのあいだの齟齬がなくなる。

反復は本質的に象徴的なものであり、シンボルやシミュラークルは反復自体の文字 lettre である。la répétition est symbolique dans son essence, le symbole, le simulacre, est la lettre de la répétition même.(ドゥルーズ『差異と反復』1968)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

ここで臨床的ラカン派と哲学的ラカン派とのあいだの齟齬の橋渡しとなりうる、ベルギーの臨床家ポール・バーハウの文を掲げよう(参照:真珠貝と砂粒)。《晩年のラカンの「文字 Lettre」理論とは、身体の上の欲動の「原固着」あるいは「刻印」を理解する彼なりの方法である。》(BEYOND GENDER. From subject to drive Paul Verhaeghe 2001)

R.S.I. (1974-1975)のセミネール22にて、ラカンは症状の現実界部分、あるいは「文字lettre」の概念を通した対象a を明示した。この文字は、欲動に関連したシニフィアンの核、現実界の享楽を固着している実体 substance である。

対照的に、シニフィアンは、言語的価値を獲得した或る文字である。シニフィアンの場合、欲動の現実界は、すでに象徴界に浸透されている。すなわち、記号化されている。この論拠内で、ラカンは「文字」、あるいは対象a を、主人のシニフィアンS1 と等価とする。それは次の条件においてである。すなわち、このS1 はS2 (他の諸シニフィアンの一群)から隔離されたものとして理解されるという条件において。「文字」S1 は、S2 とつながった時にのみ、ひとつのシニフィアンに変換される。

この「文字」の考え方を以て、ラカンは、現実界と象徴界とのあいだの境界は、弱い境界だという事実を強調しようとしている。すなわち、現実界が象徴界によって植民地化されるということは、常に可能である。たとえば、諸シニフィアンの連鎖は、ドラの口唇享楽に侵入した。つまり、欲動の現実界は、神経性の咳 tussis nervosa と嗄れ声 hoarseness の症状を通して、記号化された。フロイトによって分析された症状の全ては、象徴界の表象代理部分であり、欲動の現実界は、ほとんど変わらぬままの姿で後に患者のもとに回帰した。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, 2002)

 バーハウの文を演繹すれば、現実界と象徴界とのあいだの境界表象とは、現実界的なものか、象徴界的なものなのか、ということである。なにはともあれ固着としての症状のシニフィアンは、境界表象である。

固着は原抑圧のことであり、『夢判断』以前の初期フロイトの抑圧は主に原抑圧のことである。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(フロイト, フリース書簡、I January 1896,Draft K)

バーハウの解釈ではこの境界表象 GrenzvorstellungがラカンのS(Ⱥ)、つまりサントーム、ひとつきりのシニフィアンのことである(参照:非抑圧的無意識 nicht verdrängtes Ubw と境界表象 Grenzvorstellung (≒ signifiant(Lⱥ Femme)

⋯⋯⋯⋯

さてまだ書き足りない部分はあるが、当面ここまでとする。

なにはともあれ、ひとつきりのシニフィアンでさえ、Hélène Bonnaudのいう《「一」と身体がある Il y a le Un et le corps》なのであり、マルクスの価値形態論由来の柄谷行人の言語の定義からは免れないはずである。

言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式 体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系ある いは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あ るいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過 剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)

ジジェクの考え方は、この柄谷行人の観点とほぼ同様であり、初期から一貫している。

象徴界と現実界を分ける棒線は、厳密に象徴界の内部のものである。というのは、その棒線が、象徴界が「それ自身になる」のを妨げるのだから。シニフィアンにとっての問題は、現実界に触れ得ないことではなく、「それ自身に到達する」ことが出来ないことだ。シニフィアンに欠けているものは、特別な言語の対象ではなく、「シニフィアン」自身、棒線を引かれない、何物にも邪魔されない〈一者〉である。(ジジェク『為すところを知らざればなり』For They Know not What They Do; Enjoyment as a Political Factor - Slavoj Žižek 1991 私訳)

Levi R. Bryantはこのジジェク文を引用して次ぎのように言っている(The Democracy of Objects、2011)。

要するに、現実界は象徴界以外の何物でもない。むしろ象徴界の一種の効果である。どのシニフィアンも、シニフィアンとその割り当てられた場所のあいだの分裂によって纏いつく相違による効果なのだ。シニフィアンは常にそれ自体と場所のあいだの相違を包含しているのだから、シニフィアンは常に-何処でもそれ自体との同一化を得ることに失敗せざるを得ない。しかしながら、それ自体との同一化が不可能だというまさにこの失敗が、そのアイデンティティの本質なのだ。
ヘーゲルが『論理の科学』で、悪戯っぽく言ってる、もしAがそれ自体と同じなら、どうして反復する必要があるんだい?と。“A = A” のような同語反復の同一の反復は、実際はそれ自体との非-同一の徴を示している。(Levi R. Bryant, The Democracy of Objects、2011)

おそらく哲学的には、コレット・ソレール、そして現在のジャック=アラン・ミレールの現実界の捉え方は受け入れがたいのである。

ラカンの見せかけ semblant とは「仮象」のことである(事実、ラカン独語訳では「仮象 Schein」とされている)。

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)

そしてララングとはまずなによりも母の言葉、その音調である。《ララングlangageが、母の舌語(母の言葉 la dire maternelle) と呼ばれることは正しい。》(コレット・ソレール、2011, Colette Soler, Les affects lacaniens)

言葉と音調 Worte und Töne があるということは、なんとよいことだろう。言葉と音調とは、永遠に隔てられているものどうしのあいだにかけわたされた虹、そして仮象の橋 Schein-Brückenではなかろうか。 (ニーチェ「快癒しつつある者 Der Genesende」『ツァラトゥストラ』第三部)

ニーチェは《境界表象 Grenzvorstellung》としてのララング、その《仮象の橋 Schein-Brücken》を歌っているのではなかろうか?

リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレインpetite rengaine、リトルネロritournelleとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980ーー「ララング定義集」)