2018年2月1日木曜日

「私たべてみたいわ、ムール貝を」

お嬢さまは今夜はひどくいやらしいことを考えているのね」から引き続く。

あの物売りの声はたのしいわ、⋯⋯⋯

「ええ、殻つき牡蠣、ええ、殻つき À la barque, les huîtres, à la barque」ーー「あら! 牡蠣だわ、私ほしかったの、とっても!Oh ! des huîtres, j'en ai si envie ! 」⋯⋯

「ええ、生きのいい、おいしいムール貝、ええ、ムール貝!À la moule fraîche et bonne, à la moule ! 」

「まあ! ムール貝ですって Ah ! des moules」とアルベルチーヌがいった、「私たべてみたいわ、ムール貝を j'aimerais tant manger des moules」(プルースト「囚われの女」)

プチット・マドレーヌのなかにもムール貝がいる。

溝の入った帆立貝 coquille de Saint-Jacques の貝殻 valve のなかに鋳込まれたmoulé かにみえるプチット・マドレーヌPetites Madeleines (「スワン家のほう」)

ーーmoulé(ムール貝 moule)以外にも、coquille(浮気 cocu)、valve(女性器 vulve)

厳格で敬虔な襞 plissage sévère et dévot の下の、あまりにぼってりと官能的な si grassement sensuel、お菓子でつくった小さな貝の身 petit coquillage de pâtisserie「スワン家のほう」)

閑話休題、 ⋯⋯トコロデ貝殻ノ声ッテノハ子宮ノ声ジャナインダロウカ、・・・イヤイヤキットチガウ、《裸の娘が貝殻に乗って現れるのを待つのではない。真夜中、岸辺にうちよせる波の煙と、波頭に目を凝らすのだ。それがぼくにとって、時が水から生まれるということなのである。》 (ヨシフ・ブロツキー「ヴェネツィア・水の迷宮の夢」金関寿夫訳)

人が海を見るのではない
海が人を見ているのだ
太古から変わらぬきらめく目差しで

人が海を聞くのではない
海が人を聞いているのだ
水底にひそむ無数の貝殻の耳で

……
――谷川俊太郎「海の比喩」『真っ白でいるよりも』所収

さて、もう一度「囚われの女」に戻る。

「アルジャントゥイユのみごとなアスパラガスですよ、みごとなアスパラガス J'ai de la belle asperge d'Argenteuil, j'ai de la belle asperge.」……ああ!…それにしても、《さやいんげん、やわらかいんげん、さあ、さやいんげんですよ Haricots verts et tendres, haricots, v'là l'haricot vert》がきけるのはまだ二か月またなくちゃならないなんて。さすがにうまい言い方だわ、《やわらかいんげん Tendres haricots 》とはねえ! 私ったら、あのいんげんのまだほそいのに、ほんのほそいのに、ヴィネグレットソースをたっぷりたらしたのがほしいの。たべるなんていえるものじゃないわ、すがすがしくってまるで露をすすってるみたいですもの。ああ、それから、残念! 小さなハート型のクリーム・チーズも、まだずっと先ね、《おいしいクリム・チーズ、クリム・チーズ、おいしいチーズ!Bon fromage à la cré, à la cré, bon fromage. 》また、フォンテンブローの白ぶどう chasselas de Fontainebleau も、《みごとなシャスラがありますよ J'ai du beau chasselas 》…

でもね、私これからは私たちが呼声をきいたものしかほしくないっていってるけど、もちろん例外はいくつかつくるわ。ですから私がこれからルパッテのお店に立ちよって、私たち二人分のアイスクリーム glace を注文するのがすこしもかまわないのよ。あなたはおっしゃるでしょう、まだその季節ではないって、でも私はなんだかたべてみたくって! ⋯⋯


ーー《ほんのほそいの》じゃなくても、ソースたっぷりたらしたサヤインゲンなら《まるで露をすすってるみたい》だわ、森の鞘で、腰の鉈なんてふるう必要はないわ。

妻とギー兄さんは森の鞘に入って山桜の花盛りを眺めた日、その草原の中央を森の裂け目にそって流れる谷川のほとりで弁当を食べた。(……)そして帰路につく際、ギー兄さんは思いがけない敏捷さ・身軽さで山桜の樹幹のなかほどの分れめまで登り、腰に差していた鉈で大きい枝を伐ろうとした。妻は心底怯えて高い声をあげ、思いとどまってもらった。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)

鞘道(杣径 Holzwege)の先の明るみで Lichtung で外立 Ex-sistenz(エクスタシー開けekstatisch offen)するのに鉈なんていらないのよ・・・

ーーシツレイ! また閑話休題をしてしまった。格調高いプルーストに戻らねばならない。

呼声で売ってあるくたべもので私の好きな点は、つまり古代吟唱詩として耳でききとったものが、食卓で性格を一変して、私の口蓋に訴えてくる、ということなの Ce que j'aime dans ces nourritures criées, c'est qu'une chose entendue comme une rhapsodie change de nature à table et s'adresse à mon palais.(プルースト「囚われの女」)

というわけで、「お嬢さまは今夜はひどくいやらしいことを考えているのね」にて、プルーストの「眼差し享楽」と「肛門享楽」の叙述を抜き出したが、今回は「口唇享楽」でした。

ロラン・バルトのいうように、プルーストのなかにはなんでもある。ラカンをとおしてプルーストを読むのではなく、ひとはプルーストからラカンを読んだほうがいいのかもしれない。

もしフロイトが存在しなかったとすれば、二十世紀の精神医学はどういう精神医学になっていたでしょうかね」と私は問うた。問うた相手はアンリ・F・エランベルジュ先生。(……)

先生は少し考えてから答えられた。「おそらくプルースト的な精神医学になっただろうね、あるいはウィリアム・ジェームスか」…

彼(プルースト)は科学者ではもちろん決してないけれども、科学者の子であり、科学者の世界、少なくとも科学者の出入りする社交界を熟知しており、彼自身、植物採集家の眼を以て人間を見ている。たとえば人物を蘭やマルハナバチに巧みにたとえている。(……)

プルースト的精神医学といえば、まず「心の間歇」と訳される intermittence du cœur が頭ん浮かぶだろう。『失われた時を求めて』は精神医学あるいは社会心理学的な面が大いにあり、社交心理学ないし階級意識の心理学など、対人関係論的精神医学を補完する面を持つにちがいないが、著者自身が小説全体の題に「心の間歇」を考えていた時期があることをみれば、まず、この概念を取り上げるのが正当だろう。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」初出2007年『日時計の影』所収)

⋯⋯⋯⋯

ラカンの四区分(口唇、肛門、眼差し、声)のうち、まだ抜き出していない「声の享楽」は、「心情の間歇 Les intermittences du coeur」)の章などの記述にて名高いだろう。あの「祖母の声」、すなわち「母の声」である。

…それから私は電話口に出た、するとしばらく沈黙があったあとで、突然私はあのききおぼえのある声をきいた、いや、ききおぼえがあるというのは正しくなかった、なぜなら、いままで祖母が私とおしゃべりしていたときは、私はいつも彼女がいっていることを彼女の顔のひらかれた譜面の上にたどっていたにすぎず、その譜面のなかに大きな場所を占めていたのは彼女の目であったのにひきかえ、彼女の声そのものをきくのはきょうがはじめてであったからである。しかも、その声が一つの全体をなし、顔の表情を伴わず、そのように単独にやってくるのにぶつかると、私にはその声がいつもの釣りあいに変化を生じているように思われ、そのためかその声がいかにもやさしいことを発見した。(プルースト「ゲルマントのほうへ」)

次の文にある、《自我であるとともに、自我以上のもの moi et plus que moi》という表現はラカンの対象aの定義と等価である。 《あなたの中にはなにかあなた以上のもの、すなわち対象a quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a)》(S11)


私の全人間の転倒。夜がくるのを待ちかねて、疲労のために心臓の動悸がはげしく打って苦しいのをやっとおさえながら、私はかがんで、ゆっくり、用心深く、靴をぬごうとした。ところが半長靴の最初のボタンに手をふれたとたんに、何か知らない神聖なもののあらわれに満たされて私の胸はふくらみ、嗚咽に身をゆすられて、どっと目から涙が流れた。いま私をたすけにやってきて魂の枯渇を救ってくれたものは、数年前、おなじような悲しみと孤独のひとときに、自我を何ももっていなかったひとときに、私のなかにはいってきて、私を私自身に返してくれたのとおなじものであった、自我であるとともに、自我以上のもの moi et plus que moi (内容をふくみながら、内容よりも大きな容器、そしてその内容を私につたえてくれる容器le contenant qui est plus que le contenu et me l’apportait)だったのだ。(プルースト「ソドムとゴモラⅠ」「心情の間歇」)

《 遅発性の外傷性障害⋯⋯プルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作》(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』ーー「心の間歇と心の傷」)

だが、外傷(トラウマ)という用語に騙されてはならない。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

プルーストにとってのレミニサンスとは、「ソドムとゴモラ」の「心情の間歇 Les intermittences du coeur」の章ーー上に引用した中井久夫の文にあったように、プルーストは『失われた時をもとめて』の題名を最初は「心の間歇」にしようと考えていたーーにあらわれる《残存者と虚無との痛ましい再統合 》であるとともに(参照)、「見出された時」にあらわれる《あのような幸福の身ぶるい》を与えてくれる《きらりとひらめく一瞬の持続 、純粋状態にあるわずかな時間》でもある。

⋯⋯⋯⋯

※付記

何度も引用しているが、プルーストのあの長い小説の核心箇所である。核心箇所の「ひとつ」とは言いたくないほど(たとえばドゥルーズが重ねて引用している箇所でもある[参照:「プラトン/プルーストのレミニサンス」)。

単なる過去の一瞬、それだけのものであろうか? はるかにそれ以上のものであるだろう、おそらくは。過去にも、そして同時に現在にも共通であって、その二者よりもさらにはるかに本質的な何物かである。これまでの生活で、あんなに何度も現実が私を失望させたのは、私が現実を知覚した瞬間に、美をたのしむために私がもった唯一の器官であった私の想像力が、人は現にその場にないものしか想像できないという不可避の法則にしばられて、その現実にぴったりと適合することができなかったからなのであった。

ところが、ここに突然、そのきびしい法則の支配力が、自然のもたらした霊妙なトリックによって、よわまり、中断し、そんなトリックが、過去と現在とのなかに、同時に、一つの感覚をーーフォークとハンマーとの音、本のおなじ表題、等々をーー鏡面反射させたのであった。そのために、過去のなかで、私の想像力は、その感覚を十分に味わうことができたのだし、同時に現在のなかで、物の音、リネンの感触等々による私の感覚の有効な発動は、想像力の夢に、ふだん想像力からその夢をうばいさる実在の観念を、そのままつけくわえたのであって、そうした巧妙な逃道のおかげで、私の感覚の有効な発動は、私のなかにあらわれた存在に、ふだんはけっしてつかむことができないものーーきらりとひらめく一瞬の持続 la durée d'un éclair、純粋状態にあるわずかな時間 un peu de temps à l'état pur ――を、獲得し、孤立させ、不動化することをゆるしたのであった。

あのような幸福の身ぶるいでもって、皿にふれるスプーンと車輪をたたくハンマーとに同時に共通な音を私がきいたとき、またゲルマントの中庭の敷石とサン・マルコの洗礼堂との足場の不揃いに同時に共通なもの、その他に気づいたとき、私のなかにふたたび生まれた存在は、事物のエッセンスからしか自分の糧をとらず、事物のエッセンスのなかにしか、自分の本質、自分の悦楽を見出さないのである。私のなかのその存在は、感覚機能によってそうしたエッセンスがもたらさえない現在を観察したり、理知でひからびさせられる過去を考察したり、意志でもって築きあげられる未来を期待したりするとき、たちまち活力を失ってしまうのだ。意志でもって築きあげられる未来とは、意志が、現在と過去との断片から築きあげる未来で、おまけに意志は、そんな場合、現在と過去とのなかから、自分できめてかかった実用的な目的、人間の偏狭な目的にかなうものだけしか保存しないで、現在と過去とのなか の現実性を骨ぬきにしてしまうのである。

ところが、すでにきいたり、かつて呼吸したりした、ある音、ある匂が、現在と過去との同時のなかで、すなわち現勢的でないリアルなもの、抽象的でないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits である二者の同時のなかで、ふたたびきかれ、ふたたび呼吸されると、たちまちにして、事物の不変なエッセンス、ふだんはかくされているエッセンスが、おのずから放出され、われわれの真の自我がーーときには長らく死んでいたように思われていたけれども、すっかり死んでいたわけではなかった真の自我がーーもたらされた天上の糧を受けて、目ざめ、生気をおびてくるのだ。

時間の秩序から解放されたある瞬間が、時間の秩序から解放された人間をわれわれのなかに再創造して、その瞬間を感じうるようにしたのだ。それで、この人間は、マドレーヌの単なる味にあのようなよろこびの理由が論理的にふくまれているとは思わなくても、自分のよろこびに確信をもつ、ということがわれわれにうなずかれるし、「死 mort」という言葉はこの人間に意味をなさない、ということもうなずかれる。時間のそと hors du temps に存在する人間だから、未来について何をおそれることがありえよう? (プルースト『見出された時』井上究一郎訳だが、一部変更)