それは非常に暑い日であった、……水に反映したスレート屋根をもう一度見たくてモンジュ―ヴァンの沼まで行ってしまった私は、木陰に寝ころんで、例の家を見おろす斜面のしげみのなかで眠ってしまった……しかし、ヴァントゥイユ嬢の姿が目についた……(プルースト「スワン家のほうへ」)
ヴァントゥイユ嬢のサロンの奥のマントルピースの上には、彼女の父の小さな写真が置かれていたが、⋯⋯彼女はその写真をとりに行った、それから長椅子に身を投げだし、サイド・テーブルをそばにひきよせ、その上に写真を立てた⋯⋯やがて彼女の女友達がはいってきた。ヴァントゥイユ嬢は立ちあがりもせず、両手を頭のうしろにやったままで女友達をむかえ、相手の席をつくるかのようにソファの反対側に身をひいた⋯⋯⋯女の友へのそんな無作法な、支配者ぶったなれなれしさにもかかわらず、私は彼女の父にそっくりな、あのおもねるような、わざと控え目にした物腰や、にわかに懸念にとらえられるようすを見てとった。やがて彼女は立ちあがると、鎧戸をしめようとしてうまくしめられないというふうを装った。
「あけっぱなしにしといてよ、私暑いの」と女友達がいった。
「だって、いやだわ、私たちが人に見られるから」とヴァントゥイユ嬢が答えた。
……「人に見られるなんてねがってもないことだわ。」
ヴァントゥイユ嬢は身ぶるいした、そして立ち上がった。彼女のびくびくした感じやすい心は、どんな言葉を口に出せば自分の官能の要求する舞台に自然にすらすらとあてはまるかを知らなかった。彼女はできるだけ自分のほんとうの道徳的な性質から遠ざかって、自分が欲望の底でなりたいと思っている悪徳の娘にふさわしい言葉遣を見つけようとつとめたが、悪徳の娘が本気に口にしただろうと彼女に思われる言葉も、自分の口にのせるとなるとそらぞらしくひびくような気がした。⋯⋯⋯
とうとう彼女は、以前に女友達の口からきいた文句を、おそらくそっくりまねて、こういった、「お嬢さまは今夜はひどくいやらしいことを考えているのね」……
「あら! お父さまのあの写真が私たちを見つめているわ、誰がこんなところに置いたのかしら、二十度もいったのに、場所ちがいだって。」⋯⋯⋯この肖像写真は、彼女たちがおこなう儀式である瀆聖に、おそらくいつも役立っていたのだ⋯⋯⋯
彼女は、抗弁しない死者に向ってそれほどまでなさけ容赦をしない人間から、やさしくとりあつかわれることに感じる快楽の魔力に抵抗することができなかった、彼女は女友達のひざにとびのった、そしてあたかも相手の娘になったのも同然のしぐさで、くちづけを求めて純情そのもののようにその額をさしだし、そのようにして彼女は、相手と二人で、墓のなかまで追ってヴァントゥイユ氏からその父親の尊厳をうばいながら、ともどもに残酷の極に突きすすんでいくことを感じて、なんともいえない快さをおぼえた。⋯⋯⋯
ヴァントゥイユ嬢の心のなかでは、悪は、すくなくともその当初にあっては、おそらくそんなにまじりけのない完全な悪ではなかった。彼女のようなサディスムの女は、悪の芸術家であって、根底からわるい人間は、悪の芸術家になりえないであろう、なぜなら、根底からの悪人にあっては、悪は外部のものではなく、まったく自然にそなわったものに思われ、その悪は自分自身と区別さえつかないであろうから、そして、美徳や、死んだ人たちへの追憶や、子としての親への愛情にしても、そんな悪人は、自分がそうしたものに崇拝の念を抱かないであろうから、そうしたものを瀆聖することに冒瀆の快楽を見出すこともないであろう。
ヴァントゥイユ嬢のようなサディスムの人たちは、純然たる感傷家であり、生まれつき美徳の持主なので、そのような人たちにとっては、肉感的な快楽さえも何かわるいものであり、悪人の特権であると思われるのである。そして、そのような人たちが自己の抵抗に屈してひととき肉感的な快楽に身をまかせるとき、彼らは自分で悪人になりきった演技をしようとつとめ、共犯者にもそれをさせようとつとめるのであって、そのようにして、彼らは自分のおどおどした、愛情のこまやかな魂から出て、快楽の非人間的な世界にのがれたという錯覚をひとときもったのである。そして私は、ヴァントゥイユ嬢にとって、悪への脱出に成功することがどんなに不可能であるかを見て、彼女がどんなにそうしたいという欲望をもったかを理解するのであった。(プルースト「スワン家のほうへ」井上究一郎訳)
⋯⋯⋯⋯
文脈的にはやや異なるが、ドゥルーズからもあわせて。
われわれの愛は、われわれが愛するひとたちによっても、愛しているときの、たちまちに消え去る状態によっても展開されるものではない。
Nos amours ne s'expliquent pas par ceux que nous aimons, ni par nos états périssables au moment où nous sommes amoureux. (……)
われわれの愛には、根源的な差異 différence originelle が支配している。それは恐らく母のイメージ image de Mère であり、女性、ヴァントゥイユ嬢にとっては父のイメージである。しかしもっと深いところでは、それはわれわれの経験を越えた遠いイメージ、われわれを超越するテーマ、一種の原型である。それはわれわれが愛するひとたち、そしてわれわれが愛するただひとりのひとにさえ、分散するにはあまりにも豊かなイメージであり、観念であり、あるいは本質である。しかしそれはまたわれわれの連続する愛の中で、また孤立して捉えられたそれぞれのわれわれの愛の中で反復されるものである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
《愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)ーーこの文は少し前に引用レンパツしてるが、これももうすこし長く引用しておこう。
《すぐれたひとたち》は彼に何も教えない。ベルゴットやエルスティールさえ、彼に個人的な習得を避けさせ、シーニュと、彼が味わねばならぬ失望とを経由することを免れさせるようないかなる真実をも、彼に伝えることはできない。したがって彼は、すぐれた精神の持主も、立派な友人でさえも、短い愛ほどの価値がないことを非常に早く予感する。しかし、愛においても、それに対応する客観主義的な幻想 illusion を捨て去ることは、彼にとってはすでに困難である。愛する理由は、愛の対象となっているひとの中には決して存在せず、複雑な法則にしたがって彼のうちに具体化される幻影 fantômes・第三身分 Tiers・作文 Thèmes に帰属するものであることを彼に教えるのは、若い娘たちへの集団的な愛であり、アルベルチーヌのゆっくりした個性の形成であり、選択の偶然性である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
アルベルチーヌの名が出てきたので、こうも引用しておこう。
「まっぴらだわ! むだづかいよ、一スーだって、あんな古くさい夫婦のためなら。それよりも私にはうれしいの、一度だけでも自由にさせてくださるほうが、割ってもらいに行くために pour que j'aille me faire casser le ……」とっさに彼女の顔面は赤くなった、しまったというようすで片手を口にあてた、いま口にしたばかりの言葉、私には一向意味がわからなかった言葉を、口のなかにもどそうとするかのように。「いまどういったの、アルベルチーヌ?」――「いいえ、なんでもないの、私ふらっとねむくなったの。」――「そうじゃない、はっきり目がさめてますよ。」――「ヴェルデュランをむかえての晩餐会のことを考えていたの、あなたからのお申出、とてもありがたいわ。」――「そうじゃなくて、ぼくがきいているのは、さっきあなたがなんといったかですよ。」彼女は何度も言いなおしたを試みたが、どうもぴったりとあてはまらなかった。彼女がいった言葉にあてはまらなかったというのではなくて、彼女がいった言葉は中断され、私にはその意味があいまいだったから、言葉そのものにではなく、むしろその言葉の中断と、それに伴ったとっさの赤面とに、ぴったりとあてはまらないのであった。「いやあ、どうもあなた、そうじゃないな、さっきいおうとした言葉は。でなきゃなぜ途中でやめたの?」
――(……)彼女の釈明は私の理性を満足させなかった。私はしつこく言いたてることをやめなかった。「まあいいから、ともかく元気を出してあなたがいおうとした文句をおわりまでいってごらん、割るcasserとかなんとかでとまってしまったけれど……」――「いやよ! よして!」――「だって、どうして?」--「どうしてって、ひどく品がわるくて、はばかられるんですもの、あなたのまえで口にするのは。よくわからないの、私何を考えていたのか、その言葉の意味もよくわからないくせに、いつだったか、人通りのなかで、ひどく下品な人たちがいっているのを耳にしたそれが口に出たんですの、なぜということもなく。なんの関係もありません、私にも、ほかの誰にも。私寝言をいってたのね。」(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)
多くの場合、相手が変質をきたすのは言語活動を通じてである。あの人がなにか異質の語を口にする、そしてわたしは、あの人の世界が、まったき別の世界の全体が、おそろしげなざわめきを立てるのを聞く。アルベルチーヌが何気なく口にした「壺をこわされる me faire casser le pot」という陳腐な表現に、プルーストの語り手はおぞけをふるっている。というのも、そこに突然あからさまになったのが、女性同士の同性愛という、露骨な漁色のおどろおどろしたゲットーであったからだ。それは、言語活動の鍵穴からのぞかれた場面にほかならない。語とは、猛烈な化学変化を惹き起こす微細物質のようなものである。わたし自身のディスクールというまゆの中で長く抱かれつづけてきたあの人が、今、何気なく洩らした語を通じて、さまざまの言語が借用可能であることを、つまりは第三者から貸し与えられた言語を、聞かせているのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「変質altération」の項より 三好郁朗訳)