このブログを検索

2018年1月29日月曜日

固着ゆえに性関係はない

以下、固着シリーズ第五弾である。

サントーム Sinthomeと 「一のようなものがある Yadlun」は等価であるのを、「ラカンのサントームとは、フロイトの固着のことである」の末尾でみた。

さらにそこでの議論を演繹すれば、「サントーム」=「固着」=「一のようなものがあるYadlun」となる。

ところでこの奇妙な表現、「一のようなものがある Yadlun」とは何か?

ブルース・フィンクによる『ラカンセミネール20(アンコール)』の翻訳者注にはこうある。

Ya d' l'Un は、フランス人の耳にでさえ、すぐに理解しうる表現ではまったくない。しかしその第一の意味は、 「一のようなものがある There's such a thing as One" (or "the One") 」あるいは「一のような何かがある There's something like One" (or "the One")」であるように見える。どちらの場合も、強調されるのは、「もの thing」や量ではない。我々は「一が起こる The One happens」とさえ言いうる。

セミネール19における詳細な議論が、私がいま示した翻訳を正当化してくれる。しかし少なくとも二つのことを簡単に指摘しておかねばならない。すなわち、Y a d' l'Un は「性関係はない II n y a pas de rapport sexuel」と並記されなければならない。そしてラカンは(一の或る量という意味での)「或る一がある there's some One」とは言っていない。というのは、ラカンは「純粋差異」の「一」について語っているから。(ブルース・フィンク、1999)

フィンクが依拠しているのは、次の二文である。

《Yad'lun 》とは《非二 pas deux》であり、それは即座に《性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel 》と解釈されうる。 (ラカン、S19、17 Mai 1972)
純粋差異としての「一」は、要素概念と区別されるものである。L'1 en tant que différence pure est ce qui distingue la notion de l'élément.(ラカン、S19,17 Mai 1972)

とはいえ、こう引用しても何のことかはわからない。

そもそも純粋差異の純粋とは何か。ラカンは初期の「精神病」セミネール3で、シニフィアンの「最も形式的側面 aspect le plus formel」を「純粋シニフィアン signifiant pur」としている。

そして1962年の「カントとサド」には、美しい詩的な表現「黒いフェティッシュ」がある。

享楽が純化される jouissance s'y pétrifie とき、黒いフェティッシュ fétiche noir になる。その時空において齎されるものは形式 forme 自体である。(ラカン「カントとサド」E773、Septembre 1962)

同じ時期のセミネール10で、「 黒いフェティッシュfétiche noir」を「純粋対象 pur objet」と言っている。

「一のようなものがある Yadlun」とは「純粋シニフィアン signifiant pur」にかかわるとともに、(至高のフェティシストとしての?)わたくしの考えでは、「黒いフェティッシュ」にかかわるが、これはラカン派注釈者のだれもそんなことを言っているのを見たことがないので、ここでは遠慮してその議論は省く。

さらにラカンの「純粋差異 différence pure」としての「一」は、「永遠回帰の起源としての純粋差異 pure différence」(ドゥルーズ)とほぼ等価と見なしうるが、これもまた記述が煩雑になるのでその議論は外す。

とはいえ「一のようなものがある Yad'lun」概念把握において肝腎なのは、「内的差異 différence interne 」(『プルーストとシーニュ』)であり、「差異の差異化 le différenciant de la différence」(『差異と反復』である。ようするに形式が肝腎であり、「要素」ではないことである。

ここではまずミレールのサントーム(つまり「一のようなものがある」)の定義を再掲しよう。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書か れもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みで ある。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007 所収)

そしてジジェクによる定義を。

・「一のようなものがあるYad'lun 」の「一」はサントーム、一種の「享楽の原子」である。言語と享楽の最小の統合体 synthesis 、享楽を浸透させた諸記号 signs の単位(我々が反復強迫する痙攣のようなもの)である。

・症状が、解釈を通して解消される無意識の形成物であるなら、サントームは、「分割不能な残余」であり、それは解釈と解釈による溶解に抵抗する。サントームとは、最小限の形象あるいは瘤であり、主体のユニークな享楽形態である。

・「一のようなものがある Y a d'l'Un」の「一」は、「二」のハーモニーをかき乱す「現実界の欠片 little piece of the real」、糞便のような残余である。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

こうして、ラカンの《一のようなものがある Y a d' l'Un 》ーー「Il y a de l'Un の短縮形」--の「一」とは、量的な、数としての「一」ではないことがまずわかる。

そして最初に引用したラカン文にあるように、《一のようなものがあるとは、性関係はないと関連している « Il y a de l'un », est corrélatif de « Il n'y a pas de rapport sexuel »》(ミレール、2011)

さらにまた「一のようなものがある」とはフロイトの自体性愛とも関連がある、とのミレールの指摘がある。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。

・身体の自動的享楽 auto-jouissance du corps(自体性愛的享楽・自閉症的享楽)は、「一のようなものがある Yad'lun」と「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel 」の両方に関連づけられる。(ミレール2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure

このようにして「聖多姆と固着」で追ったミレールの《「一」と「享楽」との接合(つながり)としての固着 la fixation comme connexion du Un et de la jouissance》を視野に入れるなら、すべての人間には固着(自閉症的自体性愛)があるために、二者の関係はなく(非二 pas deux)、性関係はないということになる。

これは当然のごとく、ファルス享楽の彼岸にある身体の享楽にかかわってくる。

身体の享楽は自閉症的享楽である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013ーー「人はみな妄想する」の彼岸)

とはいえ最晩年のラカンテーゼは「人はみな妄想する」のだから、愛と幻想ーー《幻想的とは妄想的のことである》(ミレール)ーーという妄想に耽って、まがいの性関係に切磋琢磨したらよいのである・・・

幻想とは、象徴界(象徴化)に抵抗する現実界の部分に意味を与える試みである。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN、1998)
妄想とは、侵入する享楽に意味とサンス(方向性)を与える試みである。(Frédéric Declercq、LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE: CLINICAL ILLUSTRATIONS AND IMPLICATIONS、2004)

ーー妄想バンザイ! みなさん妄想にはげみましょう!

もちろんわたくしがこうやってなにやら記しているのも「性関係はない」と「自体性愛」(欲動の現実界)というトラウマの穴ーー「書かれぬことをやめぬもの qui ne cesse pas de ne pas s'écrir」--を塞ぐための「妄想」であり、みなさんのやっていることもすべてそうである。

それぞれの人にとって、妄想(幻想)の種類は異なるだけである。

ラカンは、《芸術(ヒステリー)・宗教(強迫神経症)・科学(妄想)は、人間の昇華の三様式…l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science》(S7、1960)としているが、この昇華というのも後期ラカン観点からはすべて「妄想」である。

ーー科学や物理学が「妄想」であるのは、「「遠近法」、あるいは「自然は存在しない」」で見た。そのさわりとしてニーチェを再掲しておこう。

・科学が憩っている信念は、いまだ形而上学的信念である。daß es immer noch ein metaphysischer Glaube ist, auf dem unser Glaube an die Wissenschaft ruht(ニーチェ『悦ばしき知』1882年)

・物理学とは世界の配合と解釈にすぎない。dass Physik auch nur eine Welt-Auslegung und -Zurechtlegung(ニーチェ『 悦ばしき知 Die fröhliche Wissenschaft』1882年)

安吾の繰返される口癖に「タカの知れたもの」というのがあるが、ま、人間だれもがタカが知れているのである。

《人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire délirant》とは、「我々はみな精神病的だ」を意味しない。そうではなく《我々の言説(社会的つながり)はすべて現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 》(Miller, J.-A., « Clinique ironique », 1993)を意味する。( LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert (2018)

 とはいえ相対的な質のよい妄想と質のわるい妄想があるはずである。では最もよい妄想ーーすなわち現実界の穴に対する防衛ーーは、何か?

芸術家たちーーリルケの《美は恐ろしきものの始まり》に代表されるーーやミレールによれば美である、《美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel》(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)

だが芸術だけではない。科学(人文科学も含む)にも宗教にも、さらには性行為にも日常的なおしゃべりにも、美はあるはずである。たぶん性的なもの、欲動的なものに近づくことが現実界の穴に接近する方法デアロウ・・・

何はともあれ、欲動の固着、すなわちサントーム(原症状)、「一のようなもの」ーーは取り除けないのが、フロイト・ラカン派の結論である。

・精神分析的治療は抑圧を取り除き、裸の「欲動の固着」を露わにする。この諸固着はもはやそれ自体としては変更しえない。

・固着とは、フロイトが原症状と考えたものであり、ラカン的観点においては、一般的な性質をもつ。症状は人間を定義するものである。そしてそれ自体、修正も治療もできない。これがラカンの最後の結論、すなわち「症状なき主体はない」である。(ポール・バーハウ、他, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.  Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq ,2002)

(※バーハウの叙述をいくらか追っていくと、2005年前後以降から、フロイトの「固着」という語は消えてゆき、ラカン用語にのっとって 《享楽の侵入 une irruption de la jouissance》、《刻印 inscription》という表現を多用するようになっている。)

そして、

エディプス・コンプレックス自体、症状である。その意味は、大他者を介しての、欲動の現実界の周りの想像的構築物ということである。どの個別の神経症的症状もエディプスコンプレクスの個別の形成物に他ならない。この理由で、フロイトは正しく指摘している、症状は満足の形式だと。ラカンはここに症状の不可避性を付け加える。すなわちセクシャリティ、欲望、享楽の問題に事柄において、症状のない主体はないと。

これはまた、精神分析の実践が、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない理由である。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。(ポール・バーハウ 2009、(PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains)

⋯⋯⋯⋯

ラカンの「性関係はない」とは、性交関係や男女の関係がないという意味ではない、性関係の基盤を支えるものはないという意味である(参照:性関係を基礎づけるものはない il n'y a pas de rapport sexuel)。

「性関係はない」とはむしろ成功した「性行為」関係の後、ことさら明瞭に現れるとラカンは言っている、「性交の成功が構成する失敗 ratage en quoi consiste la réussite de l'acte sexuel 」と。

女というものが外立しない La femme n'ex-siste La femme pas といっても、女というものが欲望の対象 objet de son désir とならないわけではない。いや、まったく逆であって、そこから結果が生じるのである。

そのおかげで、男は、間違って、ひとりの女に出会いrencontre une femme、その女とともにあらゆることが起こる。つまり、通常、性交の成功が構成する失敗 ratage en quoi consiste la réussite de l'acte sexuel が起きる。(ラカン、テレヴィジョン、1973)

「性交の成功が構成する失敗」の最も分かりやすい事例なら性行為後の煙草である。

たぶん映画におけるステレオタイプのセックス後の煙草は、それにもかかわらず、ある享楽の欠如を示している。なにかがもっと欲望されている、口唇の快楽が満たされていないのだ。(ブルース・フィンク、Knowledge and Jouissance 、2002)



ーーま、でもこの程度の「性関係はない」ならたいしたことはない。しっかり口唇享楽を満足させる方法ならいくらでもある。ラカンの四区分(口唇以外に、肛門、眼差し、声)があるが、たぶんそれ以外にも嗅覚、触覚、振動覚などの享楽があるだろう。

これらの自閉症的享楽は二者の性関係を使っても満足できる部分もある。ただし父なる眼差しの享楽、母なる声の享楽となるとやや工夫がいるが。

というわけで(?)もう一度くりかえすが、みなさん、しっかり妄想して男女のすばらしい連帯を築き上げましょう!

・ふたりは一度も互いに理解し合ったことがなかったが、しかしいつも意見が一致した。それぞれ勝手に相手の言葉を解釈したので、ふたりのあいだには、素晴らしい調和があった。無理解に基づいた素晴らしい連帯があった。

・私たちが本を書くのは、自分の子供に関心を抱いてもらえないからなのだ。見知らぬ世間の人々に訴えるのは、自分の妻に話しても、彼女たちが耳を塞いでしまうからなのである。(クンデラ 『笑いと忘却の書』)

ここで、人は「妄想」によって現実界に介入するべきだ、ミレールも最晩年のラカンも冷笑的で間違っている、と読むことができるジジェクの文を引用しておく。

まず、《「父の名 le Nom‐du‐Père 」とは、「騙されない者は彷徨う les non‐dupes errent」と同じ発音である》(ラカン、S21, 13 Novembre 1973)である。そして「父の名」は、ここまで見てきたように「妄想」の一種である。この前提で以下の文を読もう。

我々は、ミレールの(そして、もし人が後期ラカンのミレール読解を受け入れるならば、ラカンの)、やや粗野な名目論者的対比(象徴界と現実界とのあいだの対比)を問題視すべきである。…

人はラカンの「騙されない者は彷徨う les non‐dupes errent 」のまったく異なった読み方を提示し得る。もし我々が、象徴的見せかけ(仮象)と享楽の現実界とのあいだの対比を元にしたミレールの読解に従うなら、「騙されない者は彷徨う」とは、シニカルで古臭い諺のようなものだ。すなわち我々の価値観、理想、規則等々は、ただ仮象に過ぎないが、それらを侮ることなく、社会組織がばらばらにならないよう、現実のものとして振舞うべきだ、というものだ。

しかし正当ラカン派の立場からは、「騙されない者は彷徨う」の意味するところは全く反対である。真の錯誤 illusion とは、見せかけ(仮象)を現実として取ることではなく、現実界自体を実体化することにある。現実界を実体的なそれ自体と取り、象徴界を単に仮象の織物に降格してしまうことが真の錯誤である。

言い換えれば、 彷徨える者たちは、象徴的織物を単に仮象としてさっさと片付け、その効力に盲目な、まさにシニカルな連中である。効力、すなわち、象徴界が現実界に影響を及ぼす仕方、我々が象徴界を通して現実界に介入できるあり方に盲目な輩が、彷徨える者たちである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING 2012 私訳)

 ーージジェク観点からは、しっかり妄想して愛を育みなさい、愛をバカにしてはイケマセン、バカにする連中こそが「騙されない者は彷徨う」です!ーーということになる。

実際、ミレールはジジェクの批判する立場にますますに傾いていっているように見える。たとえば次の文は、最も鮮明にそれが現れている。

すべてが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的紐帯 lien social の現実界は、性関係の不在である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、性関係の不在という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT

なにはともあれ、かつての師弟とのあいだの(ジジェクは2004年時点でさえ、「私のラカンはミレールのラカンだ」と言っている)、そして臨床的ラカン派の第一人者ミレールと哲学的・政治的ラカン派のーー、敢えて言おう第一人者ジジェクとのあいだの相反する見解に戸惑ってはナリマセン!

ミレールかジジェクかの〈あれかこれか〉を選択することが重要デハナイノデス。これは、「私は何を知りうるか」、「私は何をなすべきか」というカント的「理性判断」と「実践判断」とのあいだの差異といってもいい、人にはこの判断のあいだのパララックス(視差)が必要ナノデス

もしここでの記述に苛立つのなら、それはあなたが「不確実性の知恵」をもっていない「無能者」ノセイデス

この<あれかこれか>のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』 )

⋯⋯⋯⋯

※付記

フロイトの自体性愛の記述をひとつ付記しておく。

愛Liebeは欲動興奮(欲動の蠢きTriebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch であるが、その後、拡大された自我に合体された対象へと移行し、さらには自我のほうから快源泉 Lustquellen となるような対象を求める運動の努力によって表現されることになる。愛はのちの性欲動 Sexualtriebe の活動と密接に結びついており、性欲動の統合が完成すると性的努力Sexualstrebung の全体と一致するようになる。

愛するということの前段階は、暫定的には性的目標 Sexualziele としてあらわれるが、一方、性欲動のほうも複雑な発達経過をたどる。すなわち、その発達の最初に認められるのが、合体 Einverleiben ないし「可愛くて食べてしまいたいということ Fressen」である。これも一種の愛であり、対象の分離存在を止揚することと一致し、アンビヴァレンツと命名されうるものである。より高度の、前性器的なサディズム的肛門体制の段階では、対象にたいする努力は、対象への加害または対象の抹殺といった、手段をえらばぬ占有衝迫Bemächtigungsdranges という形で登場する。愛のこのような形式とその前段階は、憎しみ Haß の対象にたいして、愛がとる態度とほんど区別しがたいものである。そして性器的体制の出現とともに、はじめて愛は、憎しみの対立物になる。(フロイト『欲動とその運命』)