あまりにも名高いイマージュではある。ゴダールも『(複数の)映画史』で二三度引用している。ゴダールは、このルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリの『アンダルシアの犬 Un Chien Andalou』(1928年)から、ピエール・バチェフがシモーヌ・マルイユのお尻を撫でてその手を見つめるシーンも引用している。
ここでは胸から触る箇所をふくめて引用しよう(ゴダールのモンタージュでは胸を触る箇所を削除している)。
ーー女性のみなさん、オトコとはこういうものであることを、人生のはやい時期に悟らねばなりません!
『(複数の)映画史』には、わたくしが気づいた範囲でだが、ほかにも野外でシモーヌ・マルイユの背中を両手で触れる瞬間的な箇所のスチル画像での引用がある。この引用は、まさに映画とは《1秒間に24回の真実》(ゴダール)の実践を示している。
最後にダリをめぐる愉快なイマージュを以前に拾ったので、それもgifに変換して貼り付けておこう。
※付記
⋯⋯⋯⋯
最も簡潔な意味での現実界とは、象徴界には女のシニフィアンがない(《女というものは存在しない la femme n'existe pas》)ことによって生じる性的非関係、そのトラウマ(=穴)である。
ラカン派観点からは、われわれの全活動はこの現実界に対する防衛である(参照:科学が存在するのは「女というものは存在しない 」からである)。
そして現実界とは、象徴界の裂け目・穴に外立する。
形式的な意味だけに限っても、象徴界に裂目、穴を開ける、あるいは象徴界を揺らめかすことによって、現実界が顕現する。 すくなくともその場合がある。
《神の外立 l'ex-sistence de Dieu》 (ラカン、S22) があるのである、--《コトバとコトバの隙間が神の隠れ家》(谷川俊太郎「おやすみ神たち」)
神、すなわち女である。
⋯⋯⋯⋯
ミレールのいう《美は現実界に対する最後の防衛》を受け入れるとしても、母のファルス、あるいは女性のファルスの不在に対する防衛では(直接的には)ない。母のファルス自体、不在ではなく、現前/不在のズレである。
このジジェクの注釈は、次のスタンダール文から生まれる美を、はからずも説明している。
これは、ドゥルーズ が「芸術のシーニュ」を語るなかで、プルーストの記述から取り出した「内在化された差異 différence intériorisée」「シネ・マテリア Sine materia(非物質性)」、あるいはニーチェの永遠回帰の記述から取り出した「純粋差異pure différence」にかかわるとわたくしは思う。これらを表象する非感覚的なシーニュが、至高の芸術のシーニュでありうる。わたくしはバッハファンなので、美に思いを馳せるとき、バッハのフーガ、とりわけ最晩年の『フーガの技法』をほとんど常に考える。そして「シネ・マテリア Sine materia(非物質性)」「内在化された差異」「純粋差異」に準拠しなければ、あの美を説明できない。
結局、美にとって最も肝腎なのは(形式的な意味での)「表象の裂け目」を「閃かすこと」である、と今のところ考えているが、この考え方が全芸術に適用できるとまでは言わないでおく。
とはいえ映像作品においては、ニーチェのいう《「女」を探し求めている》ことやフロイトのいう《性的対象が持つ性質》を想起させるイマージュが断然いいね、ボクの場合。むしろ音楽だけかも、女なしでいいのは。
ーー女性のみなさん、オトコとはこういうものであることを、人生のはやい時期に悟らねばなりません!
『(複数の)映画史』には、わたくしが気づいた範囲でだが、ほかにも野外でシモーヌ・マルイユの背中を両手で触れる瞬間的な箇所のスチル画像での引用がある。この引用は、まさに映画とは《1秒間に24回の真実》(ゴダール)の実践を示している。
最後にダリをめぐる愉快なイマージュを以前に拾ったので、それもgifに変換して貼り付けておこう。
※付記
私は、ショーペンハウアーに反抗し、プラトンの名誉のために、古典的フランスの全高級文化と文学もまた性的関心 geschlechtlichen Interesses という地盤のうえに生い立ったということに注意をうながしておく。そこではいたるところで、色事、官能、性的競争、「女 das Weib」を探しもとめてさしつかえなかった、--探しもとめてけっして徒労にはおわらないだろう・ ・ ・(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)
「美」という概念が性的興奮 Sexualerregung という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの sexuell Reizende(「魅力」die Reize)を意味していることは、私には疑いないと思われる。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
「美」や「魅力」は、もともと、性的対象が持つ性質である。Die »Schönheit« und der »Reiz« sind ursprünglich Eigenschaften des Sexualobjekts.(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』1930年)
⋯⋯⋯⋯
美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)
最も簡潔な意味での現実界とは、象徴界には女のシニフィアンがない(《女というものは存在しない la femme n'existe pas》)ことによって生じる性的非関係、そのトラウマ(=穴)である。
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。(ラカン、S21、19 Février 1974 )
穴、それは非関係・性を構成する非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexue(S22, 17 Décembre 1974)
ラカン派観点からは、われわれの全活動はこの現実界に対する防衛である(参照:科学が存在するのは「女というものは存在しない 」からである)。
我々の言説はすべて現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel (ミレール, « Clinique ironique », 1993)
そして現実界とは、象徴界の裂け目・穴に外立する。
穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは⋯⋯⋯現実界の正しい位置 position propre au réelである(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001)
現実 réalité は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界 Réel である。そして現実界は、この象徴空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,1999)
形式的な意味だけに限っても、象徴界に裂目、穴を開ける、あるいは象徴界を揺らめかすことによって、現実界が顕現する。 すくなくともその場合がある。
《神の外立 l'ex-sistence de Dieu》 (ラカン、S22) があるのである、--《コトバとコトバの隙間が神の隠れ家》(谷川俊太郎「おやすみ神たち」)
神、すなわち女である。
⋯一般的に人が神と呼ぶもの。だが精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme》だということである。on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme »(ラカン、S23、16 Mars 1976)
⋯⋯⋯⋯
ミレールのいう《美は現実界に対する最後の防衛》を受け入れるとしても、母のファルス、あるいは女性のファルスの不在に対する防衛では(直接的には)ない。母のファルス自体、不在ではなく、現前/不在のズレである。
《母のペニスの欠如は、ファルスの性質が現われる場所である。sur ce manque du pénis de la mère où se révèle la nature du phallus》(ラカン「科学と真理」1965、E877)ーーわれわれは、この指摘にあらゆる重要性を与えなければならない。それはまさにファルスの機能とその性質を識別するものである。
そして、ここに、我々はフロイトの紛らわしい「ナイーヴな」フェティッシュ概念、すなわち主体が、女性のペニスの欠如を見る前に見た最後の物としてのフェティッシュという考え方を更新すべきである。フェティッシュが覆うものは、単純に女性におけるペニスの欠如ではない(男におけるその現前と対照的な)。そうではなく、現前/不在のまさにこの構造が、厳密に「構造主義者的」意味での、差延(ズレ)的だという事実である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)
このジジェクの注釈は、次のスタンダール文から生まれる美を、はからずも説明している。
私の母、アンリエット・ガニョン夫人は魅力的な女性で、私は母に恋していた。 急いでつけくわえるが、私は七つのときに母を失ったのだ。(……)
ある夜、なにかの偶然で私は彼女の寝室の床の上にじかに、布団を敷いてその上に寝かされていたのだが、この雌鹿のように活発で軽快な女は自分のベッドのところへ早く行こうとして私の布団の上を跳び越えた。(スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』)
これは、ドゥルーズ が「芸術のシーニュ」を語るなかで、プルーストの記述から取り出した「内在化された差異 différence intériorisée」「シネ・マテリア Sine materia(非物質性)」、あるいはニーチェの永遠回帰の記述から取り出した「純粋差異pure différence」にかかわるとわたくしは思う。これらを表象する非感覚的なシーニュが、至高の芸術のシーニュでありうる。わたくしはバッハファンなので、美に思いを馳せるとき、バッハのフーガ、とりわけ最晩年の『フーガの技法』をほとんど常に考える。そして「シネ・マテリア Sine materia(非物質性)」「内在化された差異」「純粋差異」に準拠しなければ、あの美を説明できない。
結局、美にとって最も肝腎なのは(形式的な意味での)「表象の裂け目」を「閃かすこと」である、と今のところ考えているが、この考え方が全芸術に適用できるとまでは言わないでおく。
現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupancic、The Fifth Condition、2004)
とはいえ映像作品においては、ニーチェのいう《「女」を探し求めている》ことやフロイトのいう《性的対象が持つ性質》を想起させるイマージュが断然いいね、ボクの場合。むしろ音楽だけかも、女なしでいいのは。
「まあ! ムール貝ですって Ah ! des moules」とアルベルチーヌがいった、「私たべてみたいわ、ムール貝を j'aimerais tant manger des moules」(プルースト「囚われの女」)
ああ、プチット・マドレーヌのなかのムール貝!
溝の入った帆立貝 coquille de Saint-Jacques の貝殻 valve のなかに鋳込まれた(ムール貝されたmoulé) かにみえるプチット・マドレーヌ Petites Madeleines (「スワン家のほう」)
厳格で敬虔な襞 plissage sévère et dévot の下の、あまりにぼってりと官能的な si grassement sensuel、お菓子でつくった小さな貝の身 petit coquillage de pâtisserie(同「スワン家のほう」)
ぜんぜん「シネ・マテリア Sine materia」じゃないや、ボクの好みは。
芸術のシーニュが他のあらゆるシーニュにまさっているのは何においてであろうか。それは、他のあらゆるシーニュが物質的だということである。それらはまず第一に、シーニュが発せられていることにおいて物質的であるり、シーニュのにない手である事物の中に、なかば含まれている。感覚的性質も、好きな顔も、やはり物質である。(意味作用を持つ感覚的性質が特に匂いであり味であるのは偶然ではない。匂いや味は、最も物質的な性質である。また、好きな顔の中でも、頬と肌理がわれわれをひきつけるのも偶然ではない。) 芸術のシーニュだけが非物質的である。恐らく、ヴァントゥイユの短い楽節は、ピアノとヴァイオリンとから流れでてくるもので、非常によく似た五つのノートがあって、そのうちのふたつが反復される、というように、物質的に分解されるものであろう。しかし、プラトンの場合と同じように、三プラス二は何も説明しない。ピアノは全く別の性質を持った鍵盤の空間的イマージュとしてしか存在せず、ノートは、全く精神的なひとつの実体の《音声的な現われ》としてのみ存在する。《まるで演奏者たちは、その短い楽節が現われるのに要求される儀礼をしているようで、演奏しているようではなかった……》 この点において、短い楽節の印象そのものが、非物質性(シネ・マテリア Sine materia)である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)