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2018年9月23日日曜日

人間とは社会的関係の所産

無能な観察者たち」で、最も基本的な「倒錯の構造」について記したけれど、構造論というものは常に正しいわけではないし珍重し過ぎるのも禁物。

経験論者のために」で引用したことがあるけど、次の文の「理論」を「構造理論」に置き換えて読んでみよう。

理論の正しさは経験からは演繹できない。いや、経験から演繹できるような理論は、真の理論とはなりえない。真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。それだからこそ、それはそれまで見えなかった真理をひとびとの前に照らしだす。 (……)

真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。だが、日常経験と対立し、世の常識を逆なでするというその理論のはたらきが、真理を照らしだすよりも、真理をおおい隠しはじめるとき、それはその理論が、真の理論からドグマに転落したときである。そしてそのとき、その真理に内在していた盲点と限界とが同時の露呈されることになる。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』)

「構造理論」は、世の常識を逆なでするんだな。そしてドグマに転落する危険もある。だから話半分で聞いといたらいいのさ。

構造主義の始祖レヴィ・ストロースが「私の二人の師匠」としているのはマルクスとフロイトだけれど(『悲しき熱帯』)、フロイト自身はよほど読み込まないと、すぐさま役に立つ構造は見えてこない。そのフロイトを構造化したのがラカンだよ。

マルクスはこう言っている。

個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(『資本論』第一巻「第一版へのまえがき」1867年)

で、ラカンにおいて最も構造的な思考を促すのは「四つの言説理論」。そもそも社会的紐帯や社会的つながり等と訳される「言説 discours」は(フーコー的な「言説」の意味合いとは大きく異なり)、「社会的関係 lien social」と訳してもよい言葉だ。

言説 discours とは何か? それは、言語の存在によって生み出されうるものの配置のなかに、社会的関係 lien social の機能を作り上げるものである。 (Lacan, ミラノ講演、1972)

マルクスに強く影響を受けた柄谷行人によれば、歴史さえ構造が反復され、その構造が出来事を生む。

私は歴史の反復があると信じている。そしてそれは科学的に扱うことが可能である。反復されるものは、確かに、出来事ではなく構造、あるいは反復構造である。驚くことに、構造が反復されると、出来事も同様に反復されて現われる。しかしながら、反復され得るのは反復構造のみである。( Kojin Karatani, "Revolution and Repetition" 2008 私訳)

ラカンの言説理論(四つの言説)でも、人がそれぞれの言説の場に置かれれば、四つの言説構造各々において独自の出来事を生む、つまり《個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産》となってしまうという話。

蓮實重彦は、マルクス的な構造自体は一つの虚構にすぎないとしている。だが《とりあえず総体的な視点を確保する》と。これが構造的観点の必要性の胆だな。とくに日本的言説界ーー「共感の共同体」--における大半の「経験論者たち」のあいだではこれが何よりも肝要。

実際にこの目で見たりこの耳で聞いたりすることを語るのではなく、見聞という事態が肥大化する虚構にさからい、見ることと聞くこととを条件づける思考の枠組そのものを明らかにすべく、ある一つのモデルを想定し、そこに交錯しあう力の方向が現実に事件として生起する瞬間にどんな構図におさまるかを語るというのが、マルクス的な言説にほかならない。だから、これとて一つの虚構にすぎないわけなのだが、この種の構造的な作業仮説による歴史分析の物語は、その場にいたという説話論的な特権者の物語そのものの真偽を越えた知の配置さえをも語りの対象としうる言説だという点で、とりあえず総体的な視点を確保する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

ま、簡単にいえば、《自分が批判している対象とは異質の地平に立って、そこに自分の主体が築けるんだと思うような形で語られている抽象的な批評がいまなおあとを絶たない》(蓮實重彦『闘争のエチカ』) 、だからそこから逃れるためには、構造的観点をはずしたらダメだということ。

この態度を超越論的と呼んでもいい。

カントがいう「批判」は、ふつうにわれわれがいう批判とはちがっている。つまり、ある立場に立って他人を批判することではない。それは、われわれが自明であると思っていることを、そういう認識を可能にしている前提そのものにさかのぼって吟味することである。「批判」の特徴は、それが自分自身の関係するということにある。それは、自らをメタ(超越的)レベルにおくのではない。逆に、それは、いかなる積極的な立場をも、それが二律背反に陥ることを示すことによって斥ける、つまり、「批判」は超越論的なのである。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

ボクもひとのことは言えないけど、ラカンに学んでいるような人物でさえ、とくにツイッター装置のなかで囀ると、オタンチンになっちまうんだ。

私は主人(支配者 m'etre)だ、私は支配 m'êtrise の道を進む、私は自己の主人 m'être de moiだ、あたかも世界の支配者のように comme de l'Univers。これが…(主人のシニフィアンS1に)支配されたオタンチン con-vaincu のことである。(ラカン、S20、13 Février 1973)

ーー主人のシニフィアンS1とは最も典型的には一人称単数代名詞「ぼく」「わたし」。S1=$(欲望の主体・幻想の主体)となってしまうのが、オタンチン。

欲望の主体はない il n 'y a pas de sujet du désir。あるのは幻想の主体 Il y a le sujet du fantasme である。 ( ラカン、REPONSES A DES ETUDIANTS EN PIDLOSOPFIE,1966)

ーー後期ラカンにとって幻想とは妄想のこと。つまり妄想の主体となること。

日本語言語空間ではオタンチン言説で書けば「共感」を生む場合が多いのでことさら厄介なんだけど。「自分の言葉で書く」とかマガオで言ってる教育ある阿呆が跳梁跋扈している空間だからな。アタシは自分の家の主人だと思い込んでる連中がね、《自我は自分の家の主人ではない das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus》(フロイト)


日本における巷間の凡庸な哲学的言説、批評家の言説、さらにツイッター装置における鳥語言説はほとんどすべてオタンチン言説だよ。それは別名ボククラシ―とも呼ばれる。いわばボク珍言説。

もし一方で、哲学は、m'être (我あり・私支配)の言説を典型的に表すなら、つまり「私は私自身の主人 maîtreである」という妄想的な信念の言説、もっと正確に言うなら《我々に「私は私自身の主人だ」と思い込ませてくれる m'être à moi même》(Lacan, S17)言説であるなら、他方で、精神分析はこの支配 mastery の古臭い存在論ーーそれは、ボククラシー[je-cratie](デモクラシー(大衆支配)の変奏であり、ボク支配のこと)、《理想のボクの神話、支配するボクという神話、少なくとも何かがそれ自身、つまり話し手と一致するというボクの神話》(S17)--をラカンは代替すべきだとする。それは、par-être の言説への移行である。つまりパラ存在 para-being としての言説、横にずれる[être à côté]言説である。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa、Lacan and philosophy, 2014、pdf)