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2018年10月26日金曜日

お手てをつないだ後

ゴダールの『ヌーヴェル・ヴァーグ』(1990)における「お手てをつないだ後」の続きが、8年後の『(複数の)映画史4A』(1998)に現れる。





これは避けがたい仕儀である。

アウグスティヌスという、五世紀の偉大な学者が、性欲によって、人間の罪は伝わると言ったが、僕はこの言葉に非常な興味をもっている。

性欲は人間の愛の根源であるとともに、またそれに影を投げかける。それがなけれぱ、すなわち肉交がなければ、愛はどうしても最後の一物を欠くという意識をまぬがれがたいと同時に、それは同時に愛に対して致命的になる要素をもっている。肉体のことなぞ何でもないという人のことを僕は信じない。それはなぜか、肉交は二人の間の愛がどういう性質のものであったかを究極的な形で暴露してしまうからだ。つまりその意味は、肉交には、人間の精神に様々な態度があるだけそれだけ多様な形態があり、しかもそれが精神におけるように様々な解釈の余地がなく、端的にあらわれてしまうからだ。

肉交は一つの端的な表現だ。それは愛の証しにもなるし、その裏切りにもなる。二つの性の和合にもなるし、一つの性による他の性の征服にもなる。もちろん僕は簡単な言葉を用いているが、和合の形をとる征服もあるし、征服の形をとる和合もある。要はその本質の如何にある。そうするとやはり根本は態度の問題になる。肉の保証を求めないほど完全な信頼があるとすれば、アンジェリコの画はそれを表わしているだろう。「精神」というものがそこに表われている。精神というものがあるとすれば、そういうものでしかありえない。(森有正『バビロンの流れのほとりにて』)

お手てをつなぐ 5年前(Je vous salue, Marie ,1985年)はこうであった。






愛の形而上学の倫理……「愛の条件 Liebesbedingung」(フロイト) の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(⋯⋯)

我々は、己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質 substance humideでもって他者を愛している aimons l'autreのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)



愛Liebeは欲動興奮(欲動蠢動 Triebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch であるが、その後、拡大された自我に合体された対象へと移行し、さらには自我のほうから快源泉 Lustquellen となるような対象を求める運動の努力によって表現されることになる。愛はのちの性欲動 Sexualtriebe の活動と密接に結びついており、性欲動の統合が完成すると性的努力Sexualstrebung の全体と一致するようになる。

愛するということの前段階は、暫定的には性的目標 Sexualziele としてあらわれるが、一方、性欲動のほうも複雑な発達経過をたどる。すなわち、その発達の最初に認められるのが、合体 Einverleiben ないし「可愛くて食べてしまいたいということ Fressen」である。これも一種の愛であり、対象の分離存在を止揚することと一致し、アンビヴァレンツと命名されうるものである。より高度の、前性器的なサディズム的肛門体制の段階では、対象にたいする努力は、対象への加害または対象の抹殺といった、手段をえらばぬ占有衝迫Bemächtigungsdranges という形で登場する。愛のこのような形式とその前段階は、憎しみ Haß の対象にたいして、愛がとる態度とほんど区別しがたいものである。そして性器的体制の出現とともに、はじめて愛は、憎しみの対立物になる。(フロイト『欲動とその運命』1915年)




もっともラカンはこうも言っている。

人が愛するとき、それは性とは全く関係がない。 quand on aime, il ne s'agit pas de sexe(ラカン、S20, December 19, 1972)

この時期のラカンはリルケ的な「見返りのない愛」を思考していた時期である。それは、自己抹消的な「神への愛の絶頂 le comble de l'amour de Dieu」をめぐる(Milano. LA PSICOANALISI NELLA SUA REFERENZA AL RAPPORTO SESSUALE、1973)。

われわれ凡人には関係のない話であり、たぶんラカン自身だって関係がない・・・だから引用は差し控えておこう。
とはいえここで上に引用した(リルケの翻訳者でもあった)森有正の《肉の保証を求めないほど完全な信頼があるとすれば、アンジェリコの画はそれを表わしているだろう》を想い出すぐらいはしておこう(わたくしは高校時代にちょっとイカレタのだが)。
森有正の言っているフラ・アンジェリコの画とは「Noli me tangere  われに触れるなかれ」である。


「お手てをつなぐ」なんてのは肉欲への必然的な道である。1962年のラカンが言った《己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質でもって他者を愛している》に過ぎないのである。

Robert Bresson、Au hasard Balthazar、1966