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2018年10月27日土曜日

ネットという知的退行装置

どう思いますかだって? なんとかさんという精神科医の超自我擁護の記事を。

読んでみたけどね、--いやあとってもスバラシイよ、どうスバラシイかは、シツレイにあたるから言わないでおくが。

(そもそもこういうこと書くと「お前はどうなんだ、エラッソウに!」と言われちまうに決まってんだから、ま、話半分で聞いといてほしいけどね)

最近の文芸雑誌をパラパラと見ていると、何だか多摩川の二軍選手たちが一軍の試合で主役を張っているような恥ずかしさがあるでしょう。ごく単純に十年早いぞって人が平気で後楽園のマウンドに立っている。(『闘争のエチカ』蓮實重彦)

蓮實がこういったのは80年代だ。ネット全盛時代の現在なら、いっそうそうだよ。多摩川の二軍選手だったら、まだすごーくマシ。

要は知的階級というものは必ずあるので、蓮實は、フローベール研究にかんして、世界に真の専門家といえるのは、現在、5人程度しかいないということを言っていたが、これはあらゆる専門分野においてはほぼ当てはまる筈。




だいたい現在日本言論界で一流なんているんだろうか、すごく甘く見積もっても、二流、三流のヤツしかいないよ。たとえば若手のアズマとかチバとかコクブンとかって、プロ下流でしかないね。

ま、ネット上におけるリツイートやらファボ、ハテブ等ってのは、草野球や小学生ソフトボール、運動音痴(知的音痴)によって支えられているので、多摩川野球だってスバラシイと感じられる現象があるわけだけど。

蓮實は2010年の浅田との対談で、レスポンスを求める書き方は「批評の死」だと言っているけど、これは穏やかに言えば、浅田彰が最近のインタヴューで言ってることだ。

ネット社会の問題⋯⋯⋯。横のつながりが容易になったが、SNS上で「いいね!」数を稼ぐことが重要になった。人気や売り上げだけを価値とする資本主義の論理に重なります。他方、一部エリートにしか評価されない突出した作品や、大衆のクレームを招きかねないラディカルな批評は片隅に追いやられる。仲良しのコミュニケーションが重視され、自分と合わない人はすぐに排除するんですね。 (「逃走論」、ネット社会でも有効か 浅田彰さんに聞く、2018年1月7日朝日新聞

まずはこういうことなんだな。で、ネットだけでなく書物でも、それなりのプロでさえ人気を稼ぐために、トンデモ凡庸なことをやっちゃう場合がある。たとえば超訳ニーチェ、超訳フロイトのたぐい。啓蒙書のたぐいもほとんどそう。金を稼ぎたいのか有名になりたいのかのどちらかの力が支配している。ま、ようするにウケ狙いだな。

最も不幸なことは、人がネットの人気に溺れると、それなりのプロでももはや真に問うことをしなくなる。

こうやって人は知的退行していくのさ、中井久夫は21世紀は知的退行の時代と言っているが、ネットはこれにかぎりなく大きく「貢献」しているよ。

そもそもボクだって物理学やら生物学などの領野だったら、高校野球発言でも感嘆しちゃう場合が多いわけでね。で、それでおおむねすましちゃんだな。

なにはともあれ、よく読まれている記事や書物とは(ほとんどの場合)知的下層民向けに記されている書きものだよ

次のような姿勢はほとんどの書き手において、もはや完全に喪われてしまっている。

人が私に同意するときはいつも、私は自分が間違っているに違いないと感じる。Whenever people agree with me I always feel I must be wrong. (オスカー・ワイルド)
人が二十年もかかって考えたことのすべてを、それについて二つ三つのことばを聞くだけで、一日でわかると思いこむ人々、しかも鋭くすばやい人であればあるほど誤りやすく、真理をとらえそこねることが多いと思われる。(デカルト『方法序説』)
フランスにブルバキという構造主義数学者集団があった。この匿名集団の内密の規約は、発表が同人にただちに理解されれば己の限界を悟って静かに退くというものであった。出版と同時に絶賛される著者には、時にこの自戒が必要であろう。(中井久夫「書評の書評」)


それ以外にも、ある発言が好評を博するのは、その発言内容が「優れている」のではなく、その「説話論的な形態」による場合が多いってのは、やっぱりキモにめいじていたほうがいいんじゃないだろうかね。

ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』) 


ここで蓮實が言っていること以外にも、人気が高い「説話論的な形態」には、たとえば次の要素だってある。

批評は、何一つ新しい使命をもたらさない作家を、彼に先立った流派にたいする彼の横柄な口調、誇示的な軽蔑のゆえに、予言者として、祀りあげる。批評のこのような錯誤は、常習となっている(プルースト『見出された時』)

で、こう記したからって、草野球をバカにしてるわけじゃないからな。愛らしくイキのいい女の子が草野球してる姿なんて、いくらかボクの詳しい分野だって、時と場合によって「惚れ惚れ」しちゃうときがあるさ。

ある日、海岸へ散歩に行くと、砂浜の手前の空地で、喚声がきこえ、近づいて見ると、十人あまりの若い男女があつまって野球をやっていた。いや、若いといったが、彼等の年恰好も身分も職業も僕には分からなかった。わかるのは、彼等が何の屈託もなしにボール遊びをやっているということだけだ。なかで一人、派手な横縞のセーターを着た女の動きが目についた。内野か外野か、とにかく彼女は野手なのだが、球が上るたびに、両手を拡げて誰よりも早くその落下点に駆けて行く。

「オーライ、オーライ」

喚声のなかから、彼女の声だけが際立って高くきこえた。秋の日の傾きかける海べりで、そんな光景を眺めながら僕は、なにか現実の中で夢を見ている心持だった。――これがあの長い間、待ちつづけてきた“平和”というものなのだろうか。それともやっぱり、おれは幻影を見ているだけなのだろうか。(安岡章太郎『僕の昭和史Ⅱ』)


さらに言えば、人は、共感するから同一化するんじゃないことだな。場合によっては名の知れた作家や学者のなかに凡庸さ(おバカ)の徴を見出しただけで、SNS村では集団的に共感しちゃうことだってあるのさ。これが日本的「絆」の第一の意味だよ。

(自我が同一化のさいの或る場合)この同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物 Objektperson の一つの特色 einzigen Zug (唯一の徴)だけを借りていることも、われわれの注意をひく。⋯⋯そして、同情(共感)は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)