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2018年10月22日月曜日

失語症シャーマンとしての譫妄ラカン

いやあ、まだお怒りがおさまらないようだな。

これだったらどうでしょう?

…時がたつにつれて、ぼくはファルスの突然の怒りがよくわかるようになった…彼の真っ赤になった、失語症の爆発が……時には全員を外に追い出す彼のやり方……自分の患者をひっぱたき…小円卓に足げりを加えて、昔からいる家政婦を震え上がらせるやり方…あるいは反対に、打ちのめされ、呆然とした彼の沈黙が…彼は極から極へと揺れ動いていた…大枚をはたいたのに、自分がそこで身動きできず、死霊の儀式のためにそこに閉じ込められたと感じたり、彼のひじ掛け椅子に座って、人間の廃棄というずる賢い重圧すべてをかけられて、そこで一杯食わされたと感じる者に激怒して…彼は講義によってなんとか切り抜けていた…自分のミサによって、抑圧された宗教的なものすべてが、そこに生じたのだ…「ファルスが? ご冗談を、偉大な合理主義者だよ」、彼の側近の弟子たちはそう言っていた、彼らにとって父とは、大して学識のあるものではない。「高位の秘儀伝授者、《シャーマン》さ」、他の連中はそう囁いていた、ピタゴラス学派のようにわけ知り顔で…だが、結局のところ、何なのか? ひとりの哀れな男だ。夢遊病的反復に打ちひしがれ、いつも同じ要求、動揺、愚劣さ、横滑り、偽りの啓示、解釈、思い違いをむりやり聞かされる、どこにでもいるような男だ…そう、いったい彼らは何を退屈したりできるだろう、みんな、ヴェルトもルツも、意見を変えないでいるために、いったい彼らはどんな振りができるだろう、認めることだ! 認めるって、何を? まさに彼らが辿り着いていたところ、他の連中があれほど欲しがった場所には、何もなかったのだということを…見るべきものなど何もない、理解すべきものなど何もないのだ…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳、原著1983年)

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以下は訳さないでそのまま掲げとくよ、グーグル翻訳でもたぶんいけるカンタンな英語だからな。

◆Jacques Lacan, Past and Present: A Dialogue by Alain Badiou、 Elisabeth Roudinesco 2012

E.R.: I find the final step of his journey to be instructive. During his late seminars, Lacan slipped into a certain speculative delirium: he insists on tying and untying his knots.The mathematicians he worked with, Pierre Soury and Michel Thomé and also Jean-Michel Vappereau, took part in this adventure that left multiple traces: colored drawings with rings and coordinates.




In Lacan's work, this adventure coincides with the progressive disappearance of speech and saying. At the end of life, Lacan became not aphasic, but almost mute, all the while generating neologisms ad infinitum. It was fascinating to see this man undoing his own thought in public. The gesture is unheard of, deeply subversive, like a final provocation, a final blow leveled at his supposed theoretical omnipotence.

Lacan had it out with his aporias and sunk into despair: he was scared of and defied death at the same time. Personally, I do not think that he can be imitated on this point, as certain of his epigones have done. Have the extreme formalizations and their impasses offered anything to analytic practice?Let's say that I do not think so, since they above all consisted in dissolving the time of analytic sessions in the name of a cruel and brutal formalism that I do not share and that tends to dehumanize the cure. But let's leave the question open. Thatthe late Lacan was heroic, even in his final anguish, I do not deny it, quite to the contrary. But I do not think that this final quest bears within it any renewal of the clinic.


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ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用 abus de métaphore だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もない  il n’y a pas de chose qui supporte l’imaginaire, le symbolique et le réel から。私が言っていることの本質は、性関係はない il n’y ait pas de rapport sexuel ということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ,(ラカン、S26, La topologie et le temps 、9 janvier 1979、[原文])

あなた方は気づいていないのだろうか、男性と女性とのあいだのヒト族における性的現実 réalité sexuelle には、どんな本能的関係 rapport instinctuel もないことを。

どの男もどの女を満足させるに充分ではない tout homme n'est pas apte à satisfaire toute femme? …男たちはすべての女たちを満足させはしない ils ne satisfont pas toutes les femelles,。動物の世界だけだ、それがあるのは mais il s'agit seulement d'aptitude。(ラカン、ジュネーヴ、1975 Jacques Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme )

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※付記

ふたりは一度も互いに理解し合ったことがなかったが、しかしいつも意見が一致した。それぞれ勝手に相手の言葉を解釈したので、ふたりのあいだには、素晴らしい調和があった。無理解に基づいた素晴らしい連帯があった。(クンデラ 『笑いと忘却の書』)
万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliotーー中井久夫による超訳)