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2018年11月9日金曜日

柄谷=カントのボロメオの環

ボクはボロメオの環というのは、ラカンに感心したんじゃなくて、まず柄谷行人に感心したんだな、今まで何度かそれについて記してきたけど。

柄谷はこう書いている。

フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。

そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。(柄谷行人『トランスクリティーク』p59)

この仮象・形式・物自体は、次のような言い直しもある。

カントが科学、道徳、芸術の関係を明示したことは確かである。しかし、カントが、第一批判、第二批判において示した「限界」を、第三批判において解決したと考えるのはまちがっている。彼が示したのは、これらの三つが構造的なリングをなしているということである。それは、現象、物自体、超越論的仮象がどれ一つを除いても成立しないような、ラカンのメタファーでいえば、「ボロメオの環」をなすということと対応している。だが、こうした構造を見いだすカントの「批判」は、第三批判で芸術あるいは趣味判断を論じることで完成したのではない。……(柄谷行人『トランスクリティーク』p59)

 で、カントにはほとんど無知なので、ここでは「仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)」で図示すれば、こうなる。




そして柄谷はこう書いている。

・カントは、『純粋理性批判』における新たな企てを「コペルニクス的転回」と呼んだ。この比喩は、それまでの形而上学が、主観が外的な対象を「模写」すると考えていたのに対して、「対象」を、主観が外界に「投げ入れ」た形式によって「構成」するというふうに逆転したことを意味している。

・カントは、経験論者が出発する感覚データはすでに感性の形式によって構成されたものであると述べた。

・彼が感性の形式や悟性のカテゴリーによって現象が構成されるといったのは、言語によって構成されるというのと同じことである。実際、それらは新カント派のカッシラーによって「象徴形式」といいかえられている。(柄谷行人『トランスクリティーク』)


で、たしかにボロメオの環をみると、 感覚データ(仮象)は感性の形式(言語)によって構成されているんだな。





つまり仮象は形式に覆われている(支配されている)。

これは、ラカンがセミネール2の段階で、「想像界は象徴界によって構造化されている」と要約できることを言っていることと相同的なんだな。

la [ dimension ? ] imaginaire de ce vivant, dont le moi est une des formes… et structuré : nous n'avons pas tellement à nous plaindre …et le fait qu'il est capable de remplir cette fonction symbolique qui lui donne une position éminente vis-à-vis du réel. (ラカン、S2)

ラカンはほかにもこう言っている。

想像的二者関係 dyade imaginaire の小さな他者 autreとの関係において、大きな大他者grand Autre が不在と考えるのは誤謬である。(ラカン、E678、1960年)


つまり、原初の母子関係においても、母は象徴界(大他者)の化身だということだ。例えば言語の、文化の化身。だから母とは、英語圏のラカン派ではしばしば、母なる大他者[(m)Other]と書かれる。

そして、《象徴界は言語である Le Symbolique, c'est le langage》 (ラカン、S25、10 Janvier 1978)のだから、最も簡略したラカンのボロメオの環はこう図示できる。








破門以降の中期ラカン(1973年までのラカン)は、象徴界のなかの現実界(象徴界のなかに穴をあける現実界)を語り続けて来た(科学的現実界、論理的現実界)。





ところが最晩年のラカンは、想像界と現実界のかさなり部分が真の穴(真の現実界)だと言っているわけ。ジャック=アラン・ミレールは、セミネール10「不安」のラカン(破門直前のラカン)に戻ったと言っている。

ま、ボロメオ図では現実界は想像界に覆われている(支配されている)のだけれど。このあたりが二つの現実界の核心だね。




これはゴダールが、イマージュは無に支えられていると言っている図だよ。

確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。(ゴダール『(複数の)映画史』「4B」)

この考え方、というかこの相をとれば、ハイデガーの物自体解釈だってーー柄谷は罵倒してきたわけだけどーー別の捉え方ができうるんじゃないか。

『純粋理性批判』を出版した後、カントは、同書における記述の順序に関して、現象と物自体という区分について語るのは、弁証論におけるアンチノミーについて書いてからにすべきだったと述べている。

実際、現象と物自体の区別から始めたことは、彼のいわんとすることを、現象と本質、表層と深層というような、伝統的な思考の枠組みに引き戻す結果を招いてしまった。カント以後に物自体を否定した者は、そのようなレベルで考えているのである。また、ハイデガーのように物自体を擁護した者はそれを存在論的な「深層」として見いだしている

しかし、物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ。それは疑いもなく存在するが、どうしても像(現象)としてしか見ることができないのである。したがって重要なのは、「強い視差」としてのアンチノミーである。それのみが像(現象)でない何かがあることを開示するのだ。

カントがアンチノミーを提示するのは、必ずしもそう明示したところだけではない。たとえば、彼はデカルトのように「同一的自己」と考えることを、「純粋理性の誤謬真理」と呼んでいる。しかし、実際には、デカルトの「同一的自己はある」というテーゼと、ヒュームの「同一的自己はない」というアンチテーゼがアンチノミーをなすのであり、カントはその解決として「超越論的主観X」をもちだしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』p81)

もちろん晩年のラカンがヤバイところに行ってしまったという観点もあるわけだけれど、さ。

⋯⋯⋯⋯


というわけだが、ラカンのボロメオの環はこれだけではない。大きな転回点は、1975年の末(サントームのセミネール23)で、サントームΣの留め金付きの[象徴界が想像界を覆っていず想像界に覆われている」図やら、通常版やらを示している。これはあんまり触れたくないね、

図だけ掲げておく。



私がサントームΣとして定義したものは、象徴界、想像界、現実界を一つにまとめることを可能にするものだ j'ai défini comme le sinthome [ Σ ], à savoir le quelque chose qui permet au Symbolique, à l'Imaginaire et au Réel, de continuer de tenir ensemble。…

サントームの水準でのみ…関係がある…サントームがあるところにのみ関係がある。… Au niveau du sinthome, … il y a rapport. … Il n'y a rapport que là où il y a sinthome (ラカン、S23、17 Février 1976)

・・・ま、想像界がエラクなったんだろうな、左の図は。サントーム抜きで塗り込んだらこうなるんだから(今、テキトウナコトヲ記シテイルノヲ了解シテモラワネバナラナイ)。



だからサントームが必要なのさ・・・

というわけで(?)、最終的には次のように言って死んでゆく・・・

ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用 abus de métaphore だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もない il n’y a pas de chose qui supporte l’imaginaire, le symbolique et le réel から。私が言っていることの本質は、性関係はない il n’y ait pas de rapport sexuel ということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ,(ラカン、S26, La topologie et le temps 、9 janvier 1979、[原文])

ーーいやあ、この記事、後半はメタメタだな、サントームの話はしちゃいけないのかな、ボクの場合。

で、サントームとは、フロイトの欲動の固着のことだするのが、現在の主流ラカン派の共通認識(参照:S(Ⱥ)と「S2なきS1」)。Σ が反復強迫を示す記号だね。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

というわけだが、前半はマジだよ。マジというか、ごく基本的なドグマかも。

というか、ひょっとしてメタメタのほうから、マジを破壊しなくちゃいけないのかも・・・

そもそもすべてのイマージュは言語によって構造化されてるんだろうか? 

言語の使用者は、人間に対する事物の関係 Relationen der Dinge を示しているだけであり、その関係を表現するのにきわめて大胆な隠喩 Metaphern を援用している。すなわち、一つの神経刺戟がまずイメージ  Bild に移される! これが第一の隠喩。そのイメージが再び音 Laut において模造される! これが第二の隠喩。そしてそのたびごとにまったく別種の、新しい領域の真只中への、各領域の完全な飛び越しが行われる。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚について Über Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinn」1873年:死後出版)
人間と動物を分け隔てるすべては、生々しい隠喩 anschaulichen Metaphern を概念的枠組み Schema のなかに揮発 verflüchtigen させる能力にある。つまりイメージ Bild を概念 Begriff  へと溶解するのである。この概念的枠組みのなかで何ものかが可能になる。最初の生々しい印象においてはけっして獲得されえないものが。(同上「道徳外の意味における真理と虚偽について」1873年)

⋯⋯⋯⋯

※付記

・ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「言存在 parlêtre」に置き換える remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre。…

・言存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 ⋯analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。

・言存在 parlêtre のサントーム(原症状)は、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》でありうる。(ジャック=アラン・ミレール、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER、2014)


ーー「暗闇に蔓延る異者としての身体」あるいは「暗闇に蔓延る異者としての女」は、言語によって構造化されていない「私のなかの私」である(参照)。

異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、1976年)
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)

欲動代理 Triebrepräsentanz は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

この欲動の固着かつその反復強迫が、ラカンのサントームであり、JȺである。




心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919ーー「ニーチェの永遠回帰はフロイトの反復強迫である」)

ニーチェの永遠回帰の根にあるものが反復強迫なのは当たり前である。それ以外は、すべて寝言であり、すべて妄想である。

そしてドゥルーズが1968年から1970年の仕事(『差異と反復』、『意味の論理学』、『プルーストとシーニュ』第二版)で多用した用語「強制された運動」、あるいは「強制された運動の機械 machines à movement forcé」、ーーこの表現こそフロイトの反復強迫の言い換えである(参照)。