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2019年3月12日火曜日

隠れマザコン


Pornography no longer has any charm、2018


同性愛ってのは何なんだろうな、
レズではなくゲイだけれど、
連中のなかにはやたらにエラそうにしてるヤツがいるな

なによりもまず、思春期における外傷神経症者たちなんだろうか?

つまり友人やら親やらに冷たい視線を浴びて
被差別感や孤立感を強く抱き、
その思春期の刻印が反復強迫する種族。

トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」⋯⋯これは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

「差別された」んだから、「差別的」となるのも当然ってわけかな

彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年


もっとも外傷神経症やらジジェクがあのインタビューで言っている内容とは異なって、ゲイってのは、フロイトが言うように今でもその殆どが「隠れマザコン」なのかどうかが関心があるのだけれどさ。

われわれが調べたすべての事例について確認されたのは、のちに性対象倒錯者になった者は、その幼児期の初めの数年に、非常に強烈な、だが短期間の女への固着 Fixierung an das Weib (おおむね母への固着)の時期をへてきていることである。そしてその女への固着を克服して、女との同一化 sie sich mit dem Weib identifizieren をし、自分自身を性対象 Sexualobjekt として選ぶようになる。すなわち、ナルシシズムから出発して、自分自身に似た男性を探し求める。そしてこの母との同一化した者たちは、母が彼らを愛したように、この彼らに似た若い男を愛する。

さらに、われわれはまた実にしばしば見出したのは、この性対象倒錯者たちが女性の魅力 Reiz des Weibesにまったく無感覚なのではなく、女性によって惹起された興奮 Erregung をたえず男性の対象に移行させている männliches Objekt transponierten ということである。彼らはこうして、その全生涯にわたって性対象倒錯を成立させたメカニズムを反復している。男性への強迫的追求 zwanghaftes Streben は、彼らの「やむことなき女からの逃避 ruhelose Flucht vor dem Weibe」によって決定づけられていることがわかった。(フロイト『性欲論三篇』1905年、1910年注)
同性愛。同性愛の器質的要因を認めたとしても、同性愛が成り立つときの心的過程を研究する努めをまぬかれたことにはならない。すでに無数の症例で確認された定型的過程はこうである。これまで固く母に固着 Mutter fixierteしていた 少年が、思春期をすぎて二三年後に方向転換をして自らを母と同一化 Mutter identifiziertし、そして愛の対象をさがし求めるが、その対象のうちに自分自身を再発見し、かつて母が彼を愛したようにその対象を愛するようになる、ということである。この過程の特徴として、彼が方向転換をした年頃とおなじ年頃の男性の対象をもつことになる。この性愛の条件 Liebesbedingung がふつうは長い年月つづく。

こういう結果になるには、さまざまな要因があって、それがいろいろな強さで作用することが分かっている。まず最初に母への固着 Mutterfixierung があって、これが他の女性対象Weibobjektへ移りゆくのを妨げる。母との同一化 Identifizierung mit der Mutter は、母との対象結合 Objektbindung の終末 Ausgang であるとともに、この最初の対象にたいしてある意味で忠誠をまもることを可能にしている。ついで自己愛的対象選択 narzißtischen Objektwahlの傾向がくるが、これは一般に異性へ向きを変えるよりは手近であるし実現もしやすい。こうなる契機の背後には他のもっと強力なものが隠れているか、または重複している。それは男性の性器をたかく評価することであり、愛の対象にそれのないことを諦められないことである。女性軽視、女性嫌悪、さらに女性憎悪 Die Geringschätzung des Weibes, die Abneigung gegen dasselbe, ja der Abscheu vor ihm も、女性はペニスをもたないという幼時に見つけた発見につながるものである。

後になってわれわれは、同性愛的な対象選択の有力な動機として、父への配慮や父にたいする不安があるのを知った。女性への愛を諦めることは、父(または彼が出会うすべての男性)との競争を避けるという意味があるからである。ペニスがあるという条件Penisbedingungの固執と男との競争の回避と、この二つの動機は去勢コンプレクスにかぞえられよう。母との結びつきMutterbindung――ナルシシズムNarzißmus――去勢不安 Kastrationsangst、このなんら特別のことのない契機を、これまでわれわれは同性愛の心理的な病因のうちに見出してきたが、これに加えて早期のリビドー固着 Fixierung der Libido をもたらす誘惑 Verführung の影響があり、また性愛生活 Liebesleben において受身の役割 passive Rolleを助長する器質的な要因がある。(フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』1922年)


プルースト、ロラン・バルト、折口信夫、そしてたぶんジャン・ジュネも、隠れマザコンどころか真のマザコンだけどさ。

こういったことを記すと、キラワレルのはよくわかってるさ、
日本ではポリコレ正義の味方のみなさんばっかりだからな。

被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)

ポリコレに守られてるんじゃないかな
あれらエラッソウなインテリゲイたち。

日本インテリ業界ってのは
おおむねポリコレに去勢されてる連中ばっかりで、
言いたいことも言えないんだろうがね。