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2019年3月5日火曜日

モラリスト柄谷と浅田

知らないわけじゃないよ、柄谷行人や浅田彰がこう言っているのをね。

柄谷)文化に対して自然を回復せよというロマン派と、それを成熟によって乗り越えよというロマン派がいて、それらは現在をくりかえされている。後期フロイトはそのような枠組を脱構築する形で考えたと思います。文化あるいは超自我とは、死の衝動そのものが自分に向かったものだという、これはすごく大きな転回だと思う。彼はある意味で、逃げ道を絶ってしまった。

浅田)ニーチェが言っていたのもそういうことなんじゃないか。力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる。ドゥルーズやフーコーがニーチェから取り出したのもそういう見方なんで、それがさっきストア派的と言っていた姿勢にも結びつくわけでしょ。(「「悪い年」を超えて」『批評空間』1996 Ⅱ-9 坂本龍一 浅田彰 柄谷行人 座談会)

ーー「ドゥルーズやフーコーがニーチェから取り出した」とあるのは、ニーチェの「力への意志」から、ということだ。

ハイデガーが『力への意志』の617番をニーチェの核としたり、ドゥルーズが619番を核としたり、ミュラー=ラストが、あんなものニーチェ草稿編集者ガストの修正版だとしたりしているのだけれど(参照)、ま、それはこの際どうでもよろしい。

ここでは「禁止のない社会における「奴隷状態」」で引用した、ニーチェ自身によって上梓されている文のみを再掲しておこう。

たとえば偉大さにおける安らぎ、理想的な志操、高い単純さをギリシア人で驚嘆しつつ、「美しい魂」、「黄金中庸」、その他の完全性をギリシア人のうちから嗅ぎ出すということーーこうした「高い単純さ」から、結局のところドイツ的愚かしさから私を守ってくれたのは、私がおのれのうちにもっていた心理学者のおかげである。私は、ギリシア人の最も強い本能、力への意志を見てとり、私は彼らがこの欲動の飼い馴らされていない暴力に戦慄するのを見てとった、ーー私は、彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対してたがいに身の安全を護るための保護手段から生じたものであるのを見てとったのである。

In den Griechen »schöne Seelen«, »goldene Mitten« und andre Vollkommenheiten auszuwittern, etwa an ihnen die Ruhe in der Größe, die ideale Gesinnung, die hohe Einfalt bewundern - vor dieser »hohen Einfalt«, einer niaiserie allemande zu guter Letzt, war ich durch den Psychologen behütet, den ich in mir trug. Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen.(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」『偶像の黄昏』1889年)

ここには浅田のいう《力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる》とは異なったことが書かれている。すくなくともボクにはそう読める。

なにはともあれ、「力へ意志 Willen zur Macht」=「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」=「内部にある爆発物 inwendigen Explosivstoff 」に対する防衛が、ギリシア人の「あらゆる制度」の起源だとされている。

これはラカン的に言えば、こういうことだ。

欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960年)

簡潔に言い直せばこうである。

欲望は享楽に対する防衛である。le désir est défense contre la jouissance (ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)

ここでミレールがいう「享楽」とは、「自ら享楽する身体 corps qui se jouit」(参照)のことであり、ニーチェの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」と等置しうる。

欲動蠢動は刺激無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute(ラカン、セミネール10、1962)

で、柄谷と浅田の話に戻れば、柄谷行人は、2007年にも1996年の話と同じようなことを言っている。

超自我は「死の欲動」という概念の結果として考えられたのではない。逆に、欲動を自己規制するような自律的な超自我を説明するためにこそ、フロイトは「死の欲動」を想定したのだ。それによって、攻撃性は「死の欲動」の一部であると考えられる。そして、攻撃性を抑えるのは(内に向けられた)攻撃性である。そうだとすれば、攻撃性を抑制することは不可能ではない。そして、それが文化=文明化にほかならない。一言でいえば、文化=文明化とは、攻撃性を自己抑制するような社会的装置である。(柄谷行人「超自我と文化=文明化の問題」ーー『フロイト全集』 第4巻 月報2007.03.08)

これはちょっと受けいれ難いのだな、この死の欲動の捉え方は。フロイトの死の欲動概念は、第一次世界大戦参戦兵士たちの「外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosen」の続出に主要な淵源があるとする中井久夫のほうが正当的だな。

フロイトは反復強迫を例として「死の本能(死の欲動)」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)


浅田彰も2005年にもふたたび1996年と同じ様なことを言っている。

キリスト教以前の古代ギリシア・ローマには、性の問題に関しても、そういう厳格な法はほとんどない。法のないところで、自分が好きなことをして、しかし行き過ぎると自分にとってもおぞましい結果になってしまうから、自ずと程を得たところに行き着く、それが自律だと言っているわけです。法に抑えられていた力が暴発するのではない、力が自由に発揮されるところで自分自身を矯めるのだ、と。(浅田彰「不安から自律へ」2005田中康夫×浅田彰×宮台真司:「『不安』の時代から『自律』の時代へ」)

ーーより長い引用は、→「参照


柄谷や浅田はフロイトとニーチェの次の文に依拠しながらも、たぶんああ言っているわけだが。

われわれの攻撃欲 Aggressionslustを無力化するため、どんな方法がとられているだろうか。…われわれの攻撃性を取りこみ、内面化する方法である。しかし実のところこれは、攻撃性をその発祥地へ送り返すこと、つまり自分自身へと向けることに他ならない。Die Aggression wird introjiziert, verinnerlicht, eigentlich aber dorthin zurückgeschickt, woher sie gekommen ist, also gegen das eigene Ich gewendet. (フロイト『文化への不満』第7章、1930年)
外へ向けて放出されないすべての本能は内へ向けられるーー私が人間の内面化と呼ぶところのものはこれである。後に人間の「魂」と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への捌け口が堰き止められてしまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。……粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを人間自身の方へ向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、――これらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、これこそ「良心の疚しさ」の起源である。外部に敵や抵抗がなくなったために慣習の狭苦しさと単調さのうちへ押し込められた人間は、耐え切れなくてわれとわが身を引き裂き、追い詰め、食い齧り、掻き立て、虐げた。自分の檻の格子に身を打つけて傷を負うこの動物(それを諸君は「飼い馴ら」そうとしているのだ)。この窮乏した者、荒野への郷愁に憔悴した者(彼らは自ら冒険を、拷問所を、不安で危険な蛮地を創り出さずにはいられなかった)、――この阿呆が、憧憬に悴れ絶望に陥ったこの囚人が「良心の疚しさ」の発案者となったのだ。(ニーチェ『道徳の系譜』第二論文 木場深定訳)

それ以外に、柄谷行人は「超自我と文化=文明化の問題」(2007)に引用があるようにフロイトの「ヒトはなぜ戦争をするのか」の次の文にも依拠がある。

・戦争への拒絶は、単なる知性レベルでの拒否、単なる感情レベルでの拒否ではないと思われるのです。少なくとも平和主義者なら、拒絶反応は体と心の奥底からわき上がってくるはずなのです。戦争への拒絶、それは平和主義者の体と心の奥底にあるものが激しい形で外にあらわれたものなのです。私はこう考えます。このような意識のあり方が戦争の残虐さそのものに劣らぬほど、戦争への嫌悪感を生み出す原因となっている、と。

・どのような道を経て、あるいはどのような回り道を経て、戦争が消えていくのか。それを推測することはできません。しかし、今の私たちにもこう言うことは許されていると思うのです。文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!(フロイト「ヒトはなぜ戦争をするのかーアインシュタインとフロイトの往復書簡」浅見昇吾訳、1933年)

でもこれは、フロイトはモラリストとして振る舞っただけだよ、この書簡は1933年に出版されているけれど、アインシュタインとの対話自体は前年の1932年になされている。

フロイトは翌年の1933年(77歳)に(自らのモラリスト性を恥じて?)次のように言っている。

マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとってなんと悲しい暴露だろうか![traurige Eröffnung für den Ethiker! ](フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

そして「自己破壊欲動(マゾヒズム)は死の欲動である」としている。

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

なぜエロス欲動は死の欲動なのか」にて次の図を示したところだけれど。





これは1924年のマゾヒズム論の原マゾヒズム≒原サディズムという表現を活かして、あえて二次サディズムという語を想定して図示したものだ。

もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致するといってさしかえない。…ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動 projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb がふたたび取り入れられ introjiziert 内部に向け換えられうる。…この退行が起これば、二次的マゾヒズム sekundären Masochismus が生み出され、原初的 ursprünglichen マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

上の図でよいのだが、上に引用した1933年の発言にもとづけば、もっと簡潔に図示できる。すなわち次の図がフロイトの「死の欲動」である。




※「なぜエロス欲動は死の欲動なのか」ではラカンの発言を混在させてマゾヒズムについて記述したが、フロイトの記述にほぼ焦点を絞った詳細は、「エロス欲動という死の欲動」にまとめてある。


上に示したように、浅田はもちろんのこと、柄谷が《攻撃性を抑えるのは(内に向けられた)攻撃性である。そうだとすれば、攻撃性を抑制することは不可能ではない。そして、それが文化=文明化にほかならない》等と言っているのは、たんなる「二次マゾヒズム」にすぎない。誤謬とはいわないが、原マゾヒズムが十分に視野に入っていないように思える。

自己破壊欲動として原初にあるマゾヒズムへの思考の欠如は、上にも引用した浅田彰の次の二文が端的に示している。

・力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる(浅田彰、1996)

・力が自由に発揮されるところで自分自身を矯める(浅田彰、2005)

これはフーコーの《自己による自己の支配》にも依拠してもこう言っている筈(参照:エンクラティア enkrateia とソフロシューネ sophrosyne)。




ようするに、最晩年のフロイトの思考においては、最初に自己破壊欲動ありき、であり、それが外部に投射されたものが他者破壊欲動であり、さらにその他者破壊欲動が内部に退行して原初の自己破壊欲動に合流する。それがふたたび外部に向かわなければ、人は純粋な自己破壊に向かう。

以下のジジェク文は強度の「事故的トラウマ」による自己破壊だが、人が皆もっている幼児期の「構造的トラウマ」においても、強度の差はあれメカニズムは一緒。身体の上への刻印としてのトラウマは外部に投射されなければ内に籠って自己破壊的に作用する。

想いだしてみよう、奇妙な事実を。プリーモ・レーヴィや他のホロコーストの生存者たちによって何度も引き起こされる事実をだ。生き残ったことへの彼らの内奥の反応が、いかに深刻な分裂によって刻印されているか。

意識的には彼らは十全に気づいている、自らの生存は意味のない偶然の結果であることを。彼らが生き残ったことについて何の罪もない。責めを負うべき加害者はたただナチの拷問者たちのみであると。

だが同時に、彼らは「非合理的な」罪の意識にとり憑かれている。まるで彼らは他者たちの犠牲によって生き残ったかのように、そしていくらかは他者たちの死に責任があるかのようにして。

よく知られているように、この耐えがたい罪の意識が生存者の多くを自殺に追いやるのだ。これが示しているのは、最も純粋な超自我の審級である。この猥雑な審級、それがわれわれを操り、自己破壊の渦巻く奈落へと導く。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

「最も純粋な超自我の審級」とジジェクが言っているのは、実質上、リビドー固着である。ラカン派において、超自我には「母なる超自我 S(Ⱥ)」と「父なる超自我 S1あるいは Φ」があり、S(Ⱥ)とはリビドー固着マテームでもある。





ようするに次の語彙群はすべて代置しうる。






ラカンがフロイトの遺書と呼んだ『終りある分析と終りなき分析』で《原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich 》(参照)とか《魔女のメタサイコロジー Hexe Metapsychologie 》とか言っているのは、このリビドー固着に由来する原破壊欲動という奔馬の飼い馴らせなさを言っている。

「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイ Hexe Metapsychologie である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第三章、1937年)

ま、言ってしまえば、柄谷行人も浅田彰も死の欲動や力への意志に関して、ちょっと甘いんじゃないかな。最近そう思うようになってきたね。

力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

至高の欲動とは、フロイト・ラカンにとって自己破壊欲動である。

でもなぜ自己破壊欲動なんてものが原初的なものとして人にはあるんだろう?

さあてね、これを言い出すと、このマザコン野郎とか言われちまうからな→「最初に分離不安ありき

ま、ボクも確としたことを言うつもりはないけどさ、でも柄谷や浅田の言っていることを文字通り受けとる必要はケほどもないことは確かだよ。ボクは両者をそれなりに長年「敬愛」してきたけどさ。