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2025年8月3日日曜日

現在、「まともな人間」か否かを判断する最も簡単なリトマス試験紙

 

いま、「まともな人間」かどうか判断するためのリトマス試験紙は、何よりもまずガザジェノサイドに触れてるか否かだろうよ。


例えばツイッターやってて10投稿するなら最低限3度は触れないとな。お愛想程度にアリバイとしてときに触れるだけでは「非まとも」のままだよ。

僕は何度か柄谷と浅田の対話を掲げてきたがね。


柄谷行人)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。


むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。


浅田彰)善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思います。〔・・・〕


日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。(浅田彰『「歴史の終わり」と世紀末の世界』1994年)



偽善でもいいんだよ、そもそも文化は偽善なんだから[参照]。ところがその偽善さえできずに善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心してるやつばかりが目につく。それを最悪っていうんだ。最悪のエゴイズムだな。


一般にエゴイズムといわれるものは自己愛ではなく、遠近法の効果である。人は、自分がいるところから見える物の配置が変わることを悪と呼び、その地点から少し離れたものは見えなくなってしまう。中国で十万人の大虐殺が起こっても、自分が知覚している世界の秩序は何の変化もこうむらない。だが一方、隣で仕事をしている人の給料がほんの少し上がり、自分の給料が変わらなかったら、 世界の秩序は一変してしまうであろう。それを自己愛とは言わない。人間は有限である。だから、正しい秩序の観念を、自分の心情に近いところにしか用いられないのである。

Ce qu'on nomme généralement égoïsme n'est pas amour de soi, c'est un effet de perspective. Les gens nomment un mal l'altération d'un certain arrangement des choses qu'ils voient du point où ils sont ; de ce point, les choses un peu lointaines sont invisibles. Le massacre de cent mille Chinois altère à peine l'ordre du monde tel qu'ils le per-çoivent, au lieu que si un voisin de travail a eu une légère augmenta-tion de salaire et non pas eux, cet ordre est bouleversé. Ce n'est pas amour de soi, c'est que les hommes étant des êtres finis n'appliquent la notion d'ordre légitime qu'aux environs immédiats de leur coeur.

(シモーヌ・ヴェイユ 「前キリスト教的直観」Intuitions pré-chrétiennes )




日本蛸壺共同体内のみで、やれ不道徳やら悪徳やらと、表面的で権力に利用されやすい「庶民的な正義感」を発散させておらずにさ、最低限、世界に向けて「偽善」やれよ。遅くてもやらないよりマシだぜ、まともな人間に少しでも近づくために。


それともそのまま末人やり続けるつもりかい?


私は君達に言う、踊る星を生むことが出来るためには、人は自分のうちに混沌を持っていなければならない。私は君達に言う、君達は自分のうちにまだ混沌を持っている。


災いなるかな! 人間がいかなる星も生まなくなる時代が来る。


災いなるかな! 自分自身を軽蔑できない、最も軽蔑すべき人間の時代が来る[ Es kommt die Weit des verächtlichsten Menschen, der sich selber nicht mehr verachten kann.]

見よ! 私は君達に「末人=最後の人間」を示そう[Seht! Ich zeige euch den letzten Menschen.]


『愛って何? 創造って何? 憧憬って何? 星って何?』―こう末人は問い、まばたきをする。


そのとき大地は小さくなっている。その上を末人が飛び跳ねる。末人は全てのものを小さくする。この種族はノミのように根絶できない。末人は一番長く生きる。

『われわれは幸福を発明した』―こう末人たちは言い、まばたきをする。


彼らは生き難い土地を去った、温かさが必要だから。彼らはまだ隣人を愛しており、隣人に身体を擦りつける、温かさが必要だから。


病気になることと不信をもつことは、かれらにとっては罪である。かれらは歩き方にも気をくばる。石につまずく者、もしくは人につまずく者は愚者とされる。


ときおり少しの毒、それは快い夢を見させる。そして最後は多量の毒、快い死のために。

かれらもやはり働く。というのは働くことは慰みになるからだ。しかしその慰みが身をそこねることがないように気をつける。


かれらはもう貧しくなることも、富むこともない。両者ともに煩わしすぎるのだ。もうだれも統治しようとしない。服従しようとしない。両者ともに煩わしすぎるのだ。

飼い主のいない、ひとつの畜群! [Kein Hirt und Eine Heerde! ] 誰もが同じものを欲し、誰もが同じだ。考え方が違う者は、自ら望んで気ちがい病院に向かう。


「むかしは、世界をあげて狂っていた」ーーそう洗練された人士は言って、まばたきする。


かれらはみな怜悧であり、世界に起こったいっさいのことについて知識をもっている。だからかれらはたえず嘲笑の種を見つける[so hat man kein Ende zu spotten]。かれらも争いはする。しかしすぐに和解するーーそうしなければ胃をそこなうからだ。

かれらはいささかの昼の快楽、いささかの夜の快楽をもちあわせている。しかし健康をなによりも重んずる。


「われわれは幸福を発明した」ーーそう末人たちは言う。そしてまばたきする。ーー

(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「序」第5節



やっぱり《自分自身を軽蔑できない、最も軽蔑すべき人間の時代》がとっくのむかしに来てんのかね。《飼い主のいない、ひとつの畜群!》の跳梁跋扈の時代が。



おい、勘違いさせないでくれよ、キミらを見てると自分を祝福して、えらい人のように思っちまうから。


グレエトヘン(マルガレエテ)


今までは余所の娘が間違でもすると、

わたしもどんなにか元気好くけなしただろう。

余所の人のしたと云う罪咎を責めるには、

わたしもどんなにか詞数が多かっただろう。

人のした事が黒く見える。その黒さが

足りないので、一層黒く塗ろうとする。

そして自分を祝福して、えらい人のように思う。


ーーゲーテ「ファウスト」森鴎外訳