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2019年3月24日日曜日

言語を使用するたびに、人はみな去勢される

言語を使用するたびに、人はみな去勢される。例えば、わたくしは今こう書くことで自らを去勢している。

この言語化により、世界は貧困化されると同時に秩序化される。

言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収 )

前期ラカンは、言語を「モノの殺害」と言っているが、これはコジューブ=ヘーゲル起源である。

なによりも先ず、シンボル le symbole は、「モノの殺害 meurtre de la chose」として現れる。そしてこの死は、主体の欲望の終りなき永続性 éterrusation de son désir を生む。(ラカン、E319, 1953)

この「モノの殺害」は後年、「象徴的去勢」と言い換えられる。

・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique

・去勢はシニフィアンの効果(インパクト)によって導入されたリアルな作用である la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (ラカン, S17、1969)

さらに3年後にはこう言う。

・シニフィアンは享楽の原因である。シニフィアンなしで、身体のこの部分にどうやって接近できよう? Le signifiant c'est la cause de la jouissance : sans le signifiant, comment même aborder cette partie du corps ?


・シニフィアンは享楽を「停止!」させるものである。Le signifiant c'est ce qui fait « halte ! » à la jouissance (ラカン、S20, December 19, 1972)

ラカンはこれと相同的な表現として、《享楽の侵入(猛侵攻)を記念するもの commémore une irruption de la jouissance》(S17)、ミレールは、《欲動のクッションの綴じ目 capiton des pulsions》(2011)と言っているが、ようするに身体的欲動蠢動の奔馬を飼い馴らす鞍がシニフィアンである。

言語の使用(シニフィアンの使用)によって去勢されてしまうモノとは、現実界であり身体である。《晩年のラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。》(ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )

究極的には、言語の使用によって、人は反復強迫(死の欲動)をもつ。言語の使用こそ、死の欲動の原因である。

例えば人は、「私」という一人称代名詞シニフィアンを使用する度に(本来は)反復強迫に襲われる筈である。なぜならシニフィアン「私」には、心的装置に同化されない「残滓としての身体」があり、それが「反復強迫」を促すから。

ジジェクはこのヴァリエーションとして、《人間が動物を凌駕するのは暴力の能力の点においてであり、それがほかならぬ言葉を使うせいだとすればどうだろう?》(LESS THAN NOTHING, 2012)(疑問符つきだが)言っている。

要するに、常にシニフィアンと身体がある。

常に「一」と「他」、「一」と「対象a(喪われた対象)」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)  (ラカン、S20、16 Janvier 1973)
「一」と身体がある Il y a le Un et le corps(Hélène Bonnaud、2013)

…………


以上、言語の使用による象徴的去勢について記したが、フロイト、ラカンにおける去勢はもちろんこれだけではない。

フロイトにとって去勢とは、自分の身体だと感じられていたものが外部に離れてしまうことである。

去勢Kastration ⋯とは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)

ラカンにとって去勢とは、享楽(斜線を引かれた享楽)である。



享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)

事実上、生きる存在としてのヒトの享楽とは、剰余享楽である。

剰余享楽は(……)享楽の欠片である。 plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン、S17、11 Mars 1970)

ラカンを読むときには、le plus-de-jouirの両義性に注意しなければならない。この語には、享楽の喪失(あるいは身体の喪失)とその喪失という穴(=トラウマ)の埋め合わせの二つの意味があるのである。

仏語の「 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)

この区別は現在でさえ、ほとんどのラカン研究者でさえできておらず、一部でのみ再三強調されているだけだが、最も注意すべきことの一つである。


⋯⋯⋯⋯

※付記

ここに記した象徴的去勢の話は、事実上、二十代のニーチェがすでに言っていることである。

・言語の使用者は、人間に対するモノの関係 Relationen der Dinge を示しているだけであり、その関係を表現するのにきわめて大胆な隠喩 Metaphern を援用している。すなわち、一つの神経刺戟 Nervenreiz がまずイメージ Bildに移される! これが第一の隠喩。そのイメージが再び音 Lautにおいて模造される! これが第二の隠喩。そしてそのたびごとにまったく別種の、新しい領域の真只中への、各領域の完全な飛び越しが行われる。

・人間と動物を分け隔てるすべては、生々しい隠喩 anschaulichen Metaphern を概念的枠組み Schema のなかに揮発 verflüchtigen させる能力にある。つまりイメージ Bild を概念 Begriff へと溶解するのである。この概念的枠組みのなかで何ものかが可能になる。最初の生々しい印象においてはけっして獲得されえないものが。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚について Über Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinn」1873年)