2019年3月1日金曜日

エンクラティア enkrateia とソフロシューネ sophrosyne

フーコーの『セクシャリティの歴史』第二巻・第三巻を「再読的?」斜め読みしてみた。

epimeleia heautou(自己への配慮を意味するギリシャ語)、cura sui(自己への配慮を意味するラテン語)は、多くの哲学教義のなかにくり返し見出される一つの命令である。(ミシェル・フーコー Michel Foucault『性の歴史 Histoire de la sexualité』第3巻 『自己への配慮 souci de soi』「自己の陶冶 culture de soi」の章)
「克己(エンクラティア enkrateia)」はむしろ、抵抗することあるいは争うことを可能ならしめ、また欲望と快楽の領域において自己の支配 sa domination を確保することを可能ならしめるところ、自己統御 maîtrise de soi のひとつの積極的な形式によって特徴づけられる。(フーコー『性の歴史』第2巻『快楽の活用 L'usage des plaisirs』「克己 Enkrateia」の章)
統御の訓練によって、また快楽の実践における慎ましさによって到達したいとされる状態である「節制(ソフロシューネ sophrosyne)」は、一つの自由状態として特徴づけられる。(フーコー『快楽の活用 L'usage des plaisirs』「自由と真理 Liberté et vérité」の章)


古代ギリシャ語で言うとカッコいいのだが、ようするにこういうことだな。




ーーフーコーは「自己統御」をギリシア文脈で、「自己陶冶」をローマ文脈で語っているので上のように図示したが、どちらも「自己による自己の支配」ということでほとんど同じ意味。

ようするに克己も節制も、自己の「身体的欲求 besoin physique」の奴隷にならないための「生の倫理」「生の技法」ということで、基本的な部分では「通俗道徳」とどうちがうんだろ? たんにカッコいいだけじゃか。つまるところ、自らの身体に対して受動的ではダメで能動的であれ!ということだ。

でもカッコいいのはひどく大切かもな、と生の芸術家「蚊居肢子」は呟いてみてもよい・・・

私を驚かせることは、私たちの社会において、芸術がもはや事物 objets としか関係しておらず、諸個人または生と関係していないということです。そしてまた、芸術が特殊なひとつの領域であり、芸術家という専門家たちの領域であるということも私を驚かしました。しかしすべての個人の生は、ひとつの芸術作品でありうるのではないでしょうか。なぜ、ひとつの画布あるいは家は芸術の対象 objets であって、私たちの生はそうではないのでしょうか。(Michel Foucault 「倫理の系譜学について─進行中の作業の概要 propos de la généalogie de l'éthique : un aperçu du travail en cours」1984年)