2019年4月11日木曜日

潜在的対象と骨象a

◼️外的差異から内的差異へ
究極の絶対的差異 différence ultime absolue とは何か。それは、ふたつの物、ふたつの事物の間の、常にたがいに外的な extrinsèque、経験の差異 différence empirique ではない。プルーストは本質について、最初のおおよその考え方を示しているが、それは、主体の核の最終的現前 la présence d'une qualité dernière au cœur d'un sujet のような何ものかと言った時である。すなわち、内的差異 différence interne であり、《われわれに対して世界が現われてくる仕方の中にある質的差異 différence qualitative、もし芸術がなければ、永遠に各人の秘密のままであるような差異》(プルースト)である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第2版、第4章、1970年)
反復とは…一般的差異 différences générales から単独的差異 différence singulière へ、外的差異 différences extérieures から内的差異 différence interne への移行として理解される。要するに、差異の差異化 le différenciant de la différenceとしての反復である。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章)


このドゥルーズ の言う「外的差異から内的差異へ」は、ラカン派的には「象徴界の差異から現実界の差異へ」と等価である。

反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

トラウマの形式による反復とは、身体的なものと心的なものの内的差異による反復強迫。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍--「夢の臍 Nabel des Traums」「我々の存在の核 Kern unseres Wese」ーー、固着のために「置き残される」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)


◼️固着=骨象

固着とは後期ラカンの用語なら「骨象 osbjet」あるいは骨象a である。

私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)



◼️潜在的対象(対象=x)と原抑圧(固着)

固着=骨象aとは、ドゥルーズ の潜在的対象に等しい。

反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x)]に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成されるのだ。潜在的対象は、たえず循環し、つねに自己に対して遷移 déplacé するからこそ、その潜在的対象がそこに現われてくる当の二つの現実的な系列のなかで、すなわち二つの現在のあいだで、諸項の想像的な変換と、 諸関係の想像的な変容を規定するのである。潜在的対象の遷移 déplacement de l'objet virtuel は、したがって、他のもろもろの偽装 déguisementとならぶひとつの偽装ではない。そうした遷移は、偽装された反復としての反復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。

反復は、実在性réalité の〔二つの〕系列の諸項と諸関係に関与する偽装とともにかつそのなかで、はじめて構成される。 ただし、そうした事態は、反復が、まずもって遷移をその本領とする内在的な審級としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立するのだ。したがってわたしたちは、偽装が抑圧によって説明されるとは、とうてい考えることができない。反対に、反復が、それの決定原理の特徴的な遷移のおかげで必然的に偽装されているからこそ、抑圧が、諸現在の表象=再現前化la représentation des présents に関わる帰結として産み出されるのである。

そうしたことをフロイトは、抑圧という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧〉と考えてしまってはいたのだが。 quitte à la concevoir encore sur le même mode, comme un refoulement dit « primaire ». (ドゥルーズ『差異と反復』第2章、財津理訳)


上の文で「原抑圧」と言っているのは、固着のこと(参照: 原抑圧・固着文献)。

フロイトは固着ーーリビドーの固着、欲動の固着ーーを抑圧の根として位置づけている。Freud situait la fixation, la fixation de libido, la fixation de la pulsion comme racine du refoulement. (ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un、30/03/2011)

ドゥルーズ に戻れば、『差異と反復』の同じ第2章にはこうある。

トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける「自動反復」という考え方 idée d'un « automatisme » は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)

『意味の論理学』では、この固着を分裂病に結びつけている。

疑いなく、分裂ポジションにおける固着あるいは退行[la fixation ou la régression à la position schizoïde]は、抑鬱ポジションへの抵抗[résistance à la position dépressive]を意味する。(『意味の論理学』第28セリー、1969年)

ーー分裂病的享楽と器官なき身体としての死の本能(死の欲動)は等価(参照:有機体なき身体)。



◼️固着と自動反復

ドゥルーズの文に「固着と退行によって条件付けられた反復」=「自動反復 automatisme」とあったが、これはフロイトの『制止、症状、不安』のなかの表現。

われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwangの作用、その自動反復 automatisme de répétition( Automatismus)の記述がある。(J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011)

この自動反復が後期ラカンの核心のサントーム=固着である。

私は昨年言ったことを繰り返そう、フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, Le PartenaireSymptôme 19/11/97)
フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着fixationを意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫 der Wiederholungs­zwang des unbewussten Esに存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)


◼️原抑圧(固着)とタナトス

ドゥルーズは『差異と反復』「序章」でも原抑圧がタナトスにかかわるとしている。

エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼岸に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』「序章」1968年)

タナトスとはもちろん反復強迫(死の欲動)のことで、サントーム(固着)の反復。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)


サントーム(リビドー 固着)は身体の自動享楽のこと。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
・分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée

・分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)

以上、このところ繰り返しているが、あらゆる反復はリビドー固着が核心である。人はみな「固着による反復強迫」の存在である。

⋯⋯⋯⋯

※付記

サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)


ドゥルーズ は『差異と反復』の最後の章で、《永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを回帰させることはなく、それ自身が純粋差異 pure différenceの世界から派生する》と記しているが、ラカンは純粋差異についてこう語っている。

この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S9, 06 Décembre 1961)
純粋差異としての「一」は、要素概念と区別されるものである。L'1 en tant que différence pure est ce qui distingue la notion de l'élément.(ラカン、S19, 17 Mai 1972)

ここでラカンが「一」と呼ぶものは、《一のようなものがある Y a de l’Un》であり、サントームである。

サントームsinthome……それは《一のようなものがある Y a de l’Un》と同一である。(jacques-alain miller、L'être et l'un、2011)
ラカンがサントーム sinthome を「一のようなものがある Y'a d'l'Un」に還元 réduit した時、「Y'a d'l'Un」は、臍・中核としてーー シニフィアンの分節化の残滓のようなものとして--「現実界の本源的繰り返し réel essentiel l'itération」を放つ。

ラカンは言っている、「二」はないと。この繰り返しitération において、自ら反復するse répèteのは、ひたすら「一」である。しかしこの「一 」は身体ではない。 「一」と身体がある Il y a le Un et le corps。

これが、ラカンが「シニフィアンの大他者 l'Autre du signifiant」を語った理由である。シニフィアンの大他者とは、身体である。すなわちシニフィアンの彼岸には、身体とその享楽がある il y a le corps et sa jouissance。 (Hélène Bonnaud, Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse, 2013 )


ドゥルーズ は純粋差異に相当するものを、プルースト論で内的差異と呼んでいるのを上で見たが、これは「内在化された差異 différence intériorisée」とも呼ばれる。


無意志的記憶における本質的なものは、類似性でも、同一性でさえもない。それらは、無意志的記憶の条件にすぎないからである L'essentiel dans la mémoire involontaire n'est pas la ressemblance, ni même l'identité, qui ne sont que des conditions 。本質的なものは、内的なものとなった、内在化された差異である L'essentiel, c'est la différence intériorisée, devenue immanente。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第2版、1970年)

この「内在化された差異」あるいは「内的差異」の、ラカンによる最も簡潔な図式化は次のものである。






左は空集合∅、右は対象aが記されている。

ここでは空集合についての注釈は記述が長くなるので、次の二文のみを引用しておくだけにする。

女 La femme とは…空集合un ensemble vide のことである。(ラカン、S22、21 Janvier 1975)
フレーゲの思考においては、「一」という概念は、ゼロ対象と数字の「一」を包含している。(Guillaume Collett、The Subject of Logic: The Object (Lacan with Kant and Frege), 2014,)


核心は「a」である。

常に「一」と「他」、「一」と「対象a(喪われた対象)」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)  (ラカン、S20、16 Janvier 1973)
「一」と身体がある Il y a le Un et le corps(Hélène Bonnaud、2013)

要するに、「一」というシニフィアンには常に喪われたものがある。常にシニフィアンと身体がある。

上にsinthome=Y'a d'l'Un」の注釈において示したHélène Bonnaudは、《シニフィアンの彼岸には、身体とその享楽がある》としていたが、 これは簡潔に言えば、シニフィアンの彼岸には、身体があるでよい。

身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972)
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

これは、事物表象(イメージ)であれ語表象(言語)であれ、どんなシニフィアンにも常に身体的残滓がある、ということである。

フロイトの「事物表象 Sachvorstellung」と「語表象 Wortvorstellung」は、ラカンの「イマーゴ imago」と「シニフィアン signifiant」である。(Identity through a Psychoanalytic Looking Glass by Stijn Vanheule & Paul Verhaeghe、2009年)


この文脈におけるラカンの対象a(喪われた対象)が上にみた骨象a=固着である。それはまた穴とも呼ばれる。

対象aは穴である。l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)

すなわち骨象aとは、穴としての骨象(トラウマとしての対象)である。

ようするに「骨象」とは、身体に突き刺さった骨、身体の上への刻印、フロイトのリビドー固着 Libidofixierungenであり、《異者としての身体 un corps qui nous est étranger(=フロイトの異物)(ラカン、S23、11 Mai 1976)のことである。

この骨のせいで身体には常に穴があいている。

身体は穴である。corps…C'est un trou(ラカン、ニース会議、1974)

そして「身体の穴」における穴とは別名、去勢と呼ばれる。

対象a とその機能は、欲望の中心的欠如 manque central du désir を表す。私は常に一義的な仕方 façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢マテーム]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)

去勢の最も簡潔な定義は、《全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。》(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)

ここでは上に記したリビドー固着による現実界的去勢ではなく、象徴的去勢(言語の使用による去勢)について示してこう。

ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)