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2019年4月17日水曜日

エロス欲動の目標は死/タナトス欲動の目標は生

前回の記述は、「エロス欲動の目標は死であり、タナトス欲動の目標は生である」という前提にもとづいている。こう記すと、まさか!? 、と仰られる方々が多々イラッシャルだろうから、もう何度もくり返したことだが、ここに簡潔に補足しておこう。


◼️エロスとタナトスは、融合と分離である。

エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争 neikos[νεῖκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものである。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけ zusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離 aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊 zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


◼️エロス欲動とタナトス欲動は、引力と斥力である。

同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


◼️究極のエロス・究極の融合(引力に吸い込まれること)は、死である。

エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un。…

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)


◼️人はみな究極の融合を憧憬しつつ、だがその死を避けようとする斥力がある。この斥力が死の欲動であり、タナトス欲動である。

生の欲動は死を目指し、死の欲動は生を目指す。[the life drive aims towards death and the death drive towards life.] (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe , Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender, 2004)

ーーすなわち、エロス欲動の目標は死であり、タナトス欲動の目標は生である。

生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod. (フロイト『快原理の彼岸』第5章)


◼️引力に誘引されつつも斥力が働く運動を、欲動混淆と呼ぶ。

われわれはそもそも純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえない。この欲動混淆 Triebvermischung は、ある種の作用の下では、ふたたび脱混淆Entmischung することもありうる。だが死の欲動 Todestriebe のうちどれほどの部分が、リビドーの付加物 libidinöse Zusätze への拘束による飼い馴らし Bändigung durch die Bindung を免れているかは、目下のところ推察できない。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

ーー欲動混淆とは荒木経惟がエロトスと呼んだものである。



◼️究極のエロスと究極の享楽は等価である。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S.17、26 Novembre 1969)
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(ミレール1988, Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006)
享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)

以上、もちろん異論があるのを知らないわけではない。そして巷間の通念からも大きく隔たる。だが上記引用群、さらに前回の「享楽のおとし物」での引用群から判断するかぎり、論理的にはこうならざるをえない。

⋯⋯⋯⋯

※付記

剰余享楽 le plus de jouir は(……)享楽の欠片である。le plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン、S17、11 Mars 1970)

この「剰余享楽」と訳される「 le plus-de-jouir」は、享楽喪失と喪失の穴埋めの二つの意味がある。

仏語の「 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)

この「 le plus-de-jouir」も論理的にいえば、エロスとタナトスの欲動混淆、すなわちエロトスである、と私は考える。

すくなくとも一部の巷間でいまだ通説として流通しているらしき次のような捉え方は、全き誤謬である。

たとえば斎藤環。

ラカンによれば「享楽」には3種類ある。「ファルス的享楽」「剰余享楽」「他者の享楽」だ。(斉藤環『生き延びるためのラカン』2006年)

あるいは佐々木中。






こうでは全くない。

女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓(穴埋め) [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)


「ファルス的享楽」「剰余享楽」「他者の享楽」(大他者の享楽・女性の享楽[参照])は、すべて「 le plus-de-jouir」である(参照)。

(生きている存在に可能な)享楽は、常に対象aの享楽(剰余享楽)と等しい。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness、2006)

このロレンゾ・チーサ31歳の書は、2012年に韓国語訳、2017年に中国語訳がなされている。日本ラカン業界の限りない劣化ぶりは、こういった21世紀に入ってからの楔をうつ何冊かの書が読まれず翻訳されていないという現象からも推し量られる。もちろんこれはラカン業界だけに限らないだろう。

ああ、あれら日本学者ムラのぬるま湯的風土はなんとかならないものか。鮎川信夫がかつて言った「相互酷評集団」の爪の垢ぐらいあってもよさそうなもんだが。

中桐雅夫の葬儀に出席しなかった鮎川信夫はこう語った。

一つだけはっきりしていたのは、私が死んだのだとしたら、友達には誰も来てもらいたくないな、ということである。それが十代の終りから相互酷評集団だった「荒地」の仲間のせめてのもの情けではないか。(鮎川信夫ーー中桐文子『美酒すこし』解説)

必ずしも常にこの態度がいいわけではない。だが現在の日本学者ムラにおいての知的退行に歯止めをかけるには、なによりもまず「非妥協的な誠実」による苛烈な相互酷評が必要である筈。

その国の友なる詩人は私に告げた。この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凛冽たる秋“カウル”であると。その空は、秋に冴え返って深く青く凛として透明であるという。きみは春風駘蕩たるこの列島の春のふんいきの中に、まさしくかの半島の秋の凛冽たる気を包んでいた。少年の俤を残すきみの軽やかさの中には堅固な意志と非妥協的な誠実があった。(中井久夫「安克昌先生を悼む」『時のしずく』所収)