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2019年4月20日土曜日

人はみな去勢埋めする

倒錯は、欲望に起こる偶然の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である Tout désir est pervers。享楽が、象徴秩序が望むような場には決してないという意味で。(MILLER, L'Autre sans Autre 、2013)

前回は説明なしに上の文を掲げたがね。これはたとえば次の意味だ。

去勢 castration が意味するのは、欲望の法 la Loi du désir の逆さになった梯子 l'échelle renversée の上に到りうるように、享楽は拒否されなければならない la jouissance soit refusée ということである。(ラカン、E827、1960年)

逆さの梯子ってのは倒錯ということだ。

そして「欲望は欲動に対する防衛」と記したのは、厳密に言えば、次のこと(ラカンによる欲動の定義は「享楽の漂流 dérive de la jouissance 「享楽のさまよい égarement de notre jouissance」)。

欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960年)

簡潔に言い直せばこうである。

欲望は享楽に対する防衛である。le désir est défense contre la jouissance (ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)

そして先に掲げた文の「欲望の法」とは「言語の法」のことであり、人はみな言語によって去勢されているという意味。

すべての話す存在の根源的去勢は、対象aによって-φ[去勢]と徴づけられる。castration fondamentale de tout être parlant, marqué moins phi -φ par un petit a (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, - 9/2/2011)

たとえばラカンの二人の友は、1980年にこう書いている。

言語活動の不幸(言語の不幸 malheur du langage)は、それ自身の確実性を証明できないところにある(しかしまた、おそらくそれが言語の逸楽 volupté でもあるのだ)。言語のノエマはおそらく、その不能性impuissanceにある。あるいはさらに積極的に言えば、言語とは本来的に虚構 fictionnel である、ということなのである。言語を虚構でないものにしようとすると、とほうもなく大がかりな手段を講じなければならない。論理にたよるか、さもなければ、誓約に頼らなければならない。(ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)
しかし厳密に言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか? Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(クリスティヴァ、J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980年)

これは、ようするに人はみな言語によって去勢されているのだから、人はみな虚構者であり、人はみなフェティシストであるということ。


もっとも人の去勢は言語による去勢だけではない。ほかの去勢もある。

それが最晩年のラカンが次のように言っている意味だ。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident …

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

言語による去勢とは、父の名による象徴的去勢のこと。

去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique (ラカン, S17、1969)


だがほかにも去勢、そして去勢の排除がある。

父の名の排除から来る排除以外の別の排除がある。il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. (Lacan, S23、16 Mars 1976)

いま上に「去勢の排除」と記したが、これは身体的なものを外に放り投げるという意味で使っている。したがって1974年のラカンが言った資本の言説批判としての「去勢の排除」とは若干異なる。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために「置き残される」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)

ようするに原抑圧あるいは去勢があれば必ず排除がある。

これがリビドー固着S(Ⱥ)による現実界的去勢のメカニズムである。このS(Ⱥ)による原象徴化には必ず象徴化の失敗がある。リビドー固着の残滓(身体的残存物)がある。ゆえに排除(身体的なものを「外に放り投げるVerwerfung」こと)がある。

これは既に欲動代理という語を使って中期フロイトが言っていることである。

欲動代理 Triebrepräsentanz は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧 Die Verdrangung』1915年)

もちろん二次原抑圧も同じメカニズムが働く。

「私が排除Verwerfungというとき、……問題となっているのは、原シニフィアンを外部の闇へと廃棄することである。ce rejet d'une partie du signifiant (signifiant primordial) dans les ténèbres extérieure (Lacan, S3、15 Février 1956)

相違は二次原抑圧はS(Ⱥ)ーー母なるシニフィアン(原シニフィアン)ーーの排除、一次原抑圧は欲動蠢動自体・トラウマとしてのȺの排除である。




(上の図で示したように、フロイトとラカンの思考においてはさらに出産外傷による原去勢があるのだが、これについてはここでは割愛。→「去勢文献」)


ジャック=アラン・ミレールがーーおそらく主に上に引用したラカン1976《父の名の排除から来る排除以外の別の排除がある》に準拠してだろうーー1990年代後半から言い出した「一般化排除」とは、人はみな穴があるということ。

人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴 Trou de la forclusion généralisée.を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる (Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité, 2018)
もし、「妄想は、すべての話す存在に共通である le délire est commun à tout parlêtre」という主張を正当化するとするなら、その理由は、「参照の空虚 vide de la référence」にある。この「参照の空虚」が、ラカンが記したȺ(大他者のなかの穴)の意味であり、ジャック=アラン・ミレールが「一般化排除 forclusion généralisée 」と呼んだものである。(Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité – ecf、2018)

ようするに一般化排除があるゆえに一般化妄想がある。一般化排除の穴とは、トラウマである。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるcombler le trou dans le Réel ために何かを発明する inventons のだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。 (ラカン、S21、19 Février 1974 )

つまりは、

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. , Vie de Lacan、2010)

あるいは、

すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。

forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose(LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert、2018年主流ラカン派会議中心議題)

上に「父の名の限定された排除」とあるが 、これは実際は、S2の排除のことであるとミレールは言っている。

神経症においては、S1 はS1-S2のペアによる無意識にて秩序づけられている。ジャック=アラン・ミレール は強調している。(精神病における)父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Pèreは、このS2の排除 la forclusion de ce S2 と翻訳されうる、と。(De la clinique œdipienne à la clinique borroméenne Paloma Blanco Díaz ,2018)

ここはフロイト・ラカン理論でおそらく最も難解で紛糾の種である「表象代理」にかかわるので、ミレールはただ上のように言っているとだけしておく。

・表象代理 Vorstellungsrepräsentanzは、(S1と)対 couple のシニフィアンS2(le signifiant S2)である。Vorstellungsrepräsentanz qui est le signifiant S2 du couple.

・表象代理は二項シニフィアンである。Le Vorstellungsrepräsentanz, c'est ce signifiant binaire. この表象代理は、原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。 (ラカン、セミネール11、1964)

で、ラカンは次のようにも言ってるんだからな。

世界が表象 représentation(vótellung) になる前に、その代理 représentant (Repräsentanz)ーー私が意味するのは表象代理 le représentant de la représentationであるーーが現れる。Avant que le monde devienne représentation, son représentant, j'entends le représentant de la représentation - émerge. (ラカン, S13, 27 Avril 1966)

ーージジェク2012の注釈はあるんだが、ま、たぶん難解すぎるので掲げるのはやめとくよ。フロイトは「表象代理」と上に引用した「欲動代理」を等置しているが、ラカンは一度も欲動代理という語を使っていない、ということぐらいは示しておこう。ナゼナンダロウナ、欲動代理だったらわかりやすいのに(蚊居肢子の頭では「欲動代理」と「欲動固着」を同じものとして扱ってるんだが、世界中、ダレモソンナコトハイッテイナイ。シタガッテ世界中ノらかん派ハ阿呆バカリデアル・・・)。


さて話を簡単系に戻せば「一般化排除 forclusion généralisée」とは、現在ラカン派で言われている言い換えとしての「一般化去勢 castration généralisée 」「一般化トラウマtraumatisme généralisée 」のこと。

それに対する防衛のために「一般化妄想 délire généralisé」あるいは「一般化倒錯 perversion généralisée」がある。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

ーー《言語は父の名である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père 》(ミレール、1997)。

父の諸名 les Noms-du-père 、それは何かの物を名付ける nomment quelque chose という点での最初の諸名 les noms premiers のことである、(LACAN 、S22. 11 Mars 1975)

ここでラカンがいっている父の諸名とは父性隠喩としての「父の名」ではなく、それ以前の固有名的名付けのことを言っている。したがってS(Ⱥ)[穴の名]の審級にある。ミレールの別の言い方なら「S2なきS1」。

この文脈のなかでミレールの次の言明がある。

精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre, 2013)

父の法[欠如の名]とは、S(Ⱥ)[穴の名]の飼い馴らしにすぎない。《ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance 》(Miller J.-A., « Ce qui fait insigne »,1987)

肝腎なのはS(Ⱥ)である。《S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions》(Miller 、Première séance du Cours 2011)。S (Ⱥ)が「穴の名 Nom-du-Trou」ということは、「享楽の名 Nom-du-Jouissance」であり、これがラカンのサントーム、フロイトの欲動の固着(リビドー固着)である(参照)。


⋯⋯⋯⋯

こうしてラカン派において(究極的には)、言語の使用者であるヒト族は、妄想者であり倒錯者であるということになる。「人はみな妄想する」とは「人はみな倒錯する」であり、穏やかにいえば、

我々の言説はすべて現実界に対する防衛 tous nos discours sont une défense contre le réel である。(ジャック=アラン・ミレール、 Clinique ironique 、 1993)


ここまで記してきたことは簡潔に図示すればこうなる。穴と穴埋めは、去勢と去勢埋めとしてもよい。




S(Ⱥ)自体、原穴埋めシニフィアンであり、右側の項にあるか、もしくは穴と穴埋めの境界表象である(参照:穴と穴埋め)。

(原)抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)