2019年5月20日月曜日

女たちの肖像写真

純粋に愛することは、隔たりへの同意である。自分と愛するものと間にある隔たりを何より尊重することである Aimer purement, c'est consentir à la distance, c'est adorer la distance entre soi et ce qu'on aime. (シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵 La pesanteur et la grâce』)



ーーゴダール『(複数の)映画史』4Aに使われた女たちの肖像写真である。

シモーヌ・ヴェイユの引用は、上の写真群とはとくに関連はない。

悪を加えられた fait du mal 者、その人は自分の中に悪をしみこませる pénètre vraiment du mal en lui。…人間には、おたがいに善を施しあう力があるように、おたがいに悪を加えあう力がある。…

外傷 blessureという形で、外部から人間にくわえられる悪は、善への願望を一層つのらせる。受けた傷が魂全体に深くくいこんでしまった la blessure a déchiré toute l'âme 場合、希求される善は全き純粋なものとなる。(Simone Weil,、ロンドン論集とさいごの手紙 Écrits de Londres et dernières lettres)


ヴェイユというのは、この外傷をはずしては、そして拒食症をはずしては、スナオには読み難いね、今のボクには。ヴェイユファンにはおこられるだろうけどな。

空虚は全き充溢以上の充溢である vide est plus plein que tous les pleins。空虚にまで達するなら人は救われる。なぜなら神がその空虚を埋めてくれるから car Dieu comble le vide。(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵 』)
拒食症 anorexie mentaleとは、食べない ne mange pas のではない。そうではなく、無を食べるのである manger rien。(ラカン、S4, 22 Mai 1957)


ヴェイユの言っていることは、ラカンのマテームでは完全に次のものである。


父の名の過剰現前の真意


こう引用しとかないとな、おこられちまうから。

フロイトとともに思い起こさねばならない。芸術の分野では、芸術家は常に分析家に先んじており l'artiste toujours le précède 、精神分析家は芸術家が切り拓いてくれる道において心理学者になることはないのだということを il n'a donc pas à faire le psychologue là où l'artiste lui fraie la voie. (ラカン 「マルグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS 」、AE193、1965年)


大江の次の文はヴェイユのパクリなんだろうな、昨晩気づいたけど。彼はこのすこしまえ彼女に触れているから。

なぜ、「中心の空洞」に向けて祈らずにいられるんだろう? (大江健三郎『燃え上がる緑の木』第二部第二章「中心の空洞」)

ヴェイユの《浄化の一つの方法。神に祈ること。人知れず祈るだけでなく、神は存在しないと考えながら祈ること。Un mode de purification : prier Dieu, non seulement en secret par rapport aux hommes, mais en pensant que Dieu n'existe pas》とは、まさに中心の空洞に向けての祈りだ。

彼女がブスケ宛に《愛はリアルだ L'amour est réel》というのは、S(Ⱥ)のこと。ーーS(Ⱥ)は現実界的シニフィアン、現実界に対する境界表象だから。

おそらくすべての人々にとって、特に不幸によって傷つけられた人々にとって、悪の根源は夢想です la racine du mal, c'est la rêverie。それは不幸な人々の唯一の慰め、唯一の富であり、時間の恐ろしい重みを担うための唯一の助けなのです。まったく無邪気な、それに欠かすことのできない助けなのです。どうしてそれなしで済ますことができましょう。

夢想にはただ一つ不都合な点があります。それはリアルでないということです c'est qu'elle n'est pas réelle。

真理に対する愛から夢想を放棄すること、それはまさに、狂熱の愛をもって夢想が与えるすべての富を投げ打ち、<真理>の化身に従うことなのです。それこそまさに自分自身の十字架を担うことにほかなりません。時間が十字架なのです。

ぎりぎりの瞬間に近づくまでそのようなことをしてはいけません。むしろ夢想をあるがままに認識しなければいけないのです。そして夢想によって支えられているあいだでも、つぎのことを片時も忘れてはなりません。夢想が子供っぽくて外見はどんなに無害に見えようと、あるいはそれが真面目なもので、美術、愛、友情 l'art, ou l'amour, ou l'amitié(多くの場合、宗教を含めて)に関連を持ち、そのために外見は非常に尊敬すべきものに見えようと、要するにどんな形態をとっていようと、夢想は虚偽であるということを、片時も忘れてはならないのです。夢想は愛を排除します。愛はリアルです L'amour est réel。(ヴェイユ書簡、ジョー・ブスケJoë Bousquet宛)