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2019年5月16日木曜日

父の名の過剰現前の真意

以下、まず次のポール・バーハウの図を、主にジャック=アラン・ミレールの観点から読み込む試みをする。






ーーこの図は、基本的にはアンコール最終講義にあらわれる次の図のヴァリエーションである。





ただしここにはȺはないので、S1の前にȺを置くことになる。





このS1とはサントームΣのこと。

反復的享楽 La jouissance répétitive…厳密に、ラカンがサントーム sinthome と呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011)


そしてサントームΣとはS(Ⱥ)のこと。

我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan「LE LIEU ET LE LIEN 」2001)


フロイト用語では、ȺとS(Ⱥ)は、欲動蠢動と欲動固着のこと。






たとえば、ミレールは次のように言っているが、これは欲動の固着のことである。

S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(ミレール、L'être et l'un, 06/04/2011)


これは、以下の文の「一[Un]」を「S2なきS1[S1 sans S2]」として読むことで確認される。

「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ミレール、L'être et l'un, 30/03/2011)


そしてȺとはJouissance barré(享楽喪失)のことでもあり、これもミレールは何度か次の図を示している。





ここでの上覆いとしての父の名NPは、旧来の父の名だけではなく、「父の諸名」を含めたもの。

父の名の複数化 pluralisme des Nom-du-Père としての「父の諸名 les Noms-du-Père」 とは、…「大他者の不在 L'inexistence de l'Autre」に捧げられている。…これは「大他者は見せかけに過ぎない l'Autre n'est qu'un semblant」ということである。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique,Séminaire- 20/11/96)


そしてサントームΣとは、身体の出来事(身体の上への刻印)としての固着であるとともに、父の名のことである。


■サントーム=身体の出来事
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…身体の出来事はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…身体の出来事は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


■サントーム=父の名
最後のラカンにおいて⋯父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (ミレール、2013、L'Autre sans Autre)
倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)


なぜȺやJouissance barréが現実界的トラウマなのかは、たとえば次の文が示している。

何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

ラカンはセミネール11では「胎盤の喪失」と言っている、

例えば胎盤placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondを象徴する。(ラカン、S11、20 Mai 1964)

これはようするに出産外傷のことであり、出産により人は母子融合という原享楽を喪う。





ラカンは上の図において、原初に想定されたものとして、AとしたりS(享楽の主体)としたりしているが、これは喪失のない主体、喪失のない大他者という意味。JA

Aは出産とともに喪われ、ȺɈになる、という思考である。

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給Besetzung(リビドー )を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung(リビドー )は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)

ここにある「喪われた対象 verlorenen Objekts」とは、原対象aである。

「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)



以上をまとめて図示すればこうなる。





ーー上の図のファルスΦは「父の隠喩」、NPは「見せかけsemblantの父の名 Nom-du-Père 」を示しており、ここではサントームΣとは区別した。

かつまた上図に示したように、ȺとJouissance barréは去勢のことでもある。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)

ここで附記的に示しておけば、対象aとはそれぞれの発達段階で発生する。





対象aとは見せかけsemblantの対象a以外は去勢のことである。

対象a とその機能は、欲望の中心的欠如 manque central du désir を表す。私は常に一義的な仕方 façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢マテーム]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)

この去勢以外の対象aとは去勢の穴埋めとしての剰余享楽である。

対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)
-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un, 9/2/2011)

そして穴とは一般にはȺとも書かれるが、Ɉとしてもよい。

フロイトは次のように記すことで、ラカンの対象aの内実を示している。

去勢ー出産 Kastration – Geburtとは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
出産過程 Geburtsvorgang は最初の危険状況 Gefahrsituationであって、それから生ずる経済的動揺 ökonomische Aufruhr は、不安反応のモデル Vorbild der Angstreaktion になる。

(……)あらゆる危険状況 Gefahrsituation と不安条件 Angstbedingung が、なんらかの形で母からの分離 Trennung von der Mutter を意味する点で、共通点をもっている。つまり、まず最初に生物学的 biologischer な母からの分離、次に直接的な対象喪失 direkten Objektverlustes、のちには間接的方法 indirekte Wege で起こる分離になる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


話を戻せば、ミレールが次のように言う内容は、ここまで示してきた図に表現されている。

精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre, 2013)

S1の過剰現前とは、S1-S2によって秩序づけられていないためである。




精神病においては、ふつうの精神病であろうと旧来の精神病であろうと、我々は一つきりのS1[le S1 tout seul]を見出す。それは留め金が外され décroché、 力動的無意識のなかに登録されていない désabonné。他方、神経症においては、S1は徴示化ペアS1-S2[la paire signifiante S1-S2]による無意識によって秩序付けられている。ジャック=アラン・ミレールは強調している、父の名の排除[la forclusion du Nom-du-Père]とは、実際はこのS2の排除[la forclusion de ce S2]のことだと。(De la clinique œdipienne à la clinique borroméenne, Paloma Blanco Díaz, 2018)


最初の父の諸名は、「母の名 Le nom de la Mère」である。場合によっては、「父の名の過剰現前」とは「母の名の過剰現前」とおそらくいいうる。

ラカンは言っている、最も根源的父の諸名 Les Noms du Père は、母なる神だと。母なる神は父の諸名に先立つ異教である。ユダヤ的父の諸名の異教は、母なる神の後釜に座った。おそらく最初期の父の諸名は、母の名である the earliest of the Names of the Father is the name of the Mother 。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991)


ラカンは、フランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文でこう書いている。

ロバート・グレーヴスRobert Gravesが定式化したように、父自身・我々の永遠の父は、白い女神 Déesse blancheの諸名のひとつに過ぎない le Père lui-même, notre père éternel à tous, n'est que Nom entre autres de la Déesse blanche(ラカン、AE563, 1974)

このロバート・グレーヴスの「白い女神 Déesse blanche」は、「母なる神 la déesse maternelle」のことである(Miller J.-A., « Religion, psychanalyse », 2003)。


これはフロイトもすでに言っている。

「偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1939)

以下、ラカン発言とミレール注釈を掲げる。

私がS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」にほかならないものを示しいるのは、神はまだ退出していない Dieu n'a pas encore fait son exitことを示すためである。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)

神とあるが、実は問題にしているのは、超自我である。

一般的には〈神〉と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(ラカン, S17, 18 Février 1970)

S(Ⱥ)とは超自我のシニフィアンでもある。

S(Ⱥ)はフロイトの超自我の翻訳である。S(Ⱥ) est une transcription du surmoi freudien(E.LAURENT,J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)
母なる超自我 surmoi mère ⋯⋯思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配されさえする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(⋯⋯)我々はこの超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール1988、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求 exigeantし、さらにいっそう圧制的 opprimant、さらにいっそう破壊的 ravageant、さらにいっそう執着的 insistant な母なる超自我が。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

実際、幼児の欲動蠢動という奔馬を飼い馴らす最初の鞍を置くのは、母あるいは母親役の人物に相違ない。




超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi,。それは父の名の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Pèreとは反対である。しかし「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎない le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi ことである。その普遍的特性は享楽への意志 la volonté de jouissance の奉仕である。(ジャック=アラン・ミレール、Théorie de Turin、2000)

最晩年のフロイトは次のように記しているが、自己破壊とは死の欲動(原マゾヒズム)のことであり、欲動蠢動のことである。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
欲動蠢動は刺激無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung(Triebregung) est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute(ラカン、S10、14 Novembre 1962)

何度も引用しているが、誤解のないようにここでも再掲しておこう(フロイトは1919年の『子供が叩かれる』におけるマゾヒズムの捉え方を反転させ、1920年以降、大幅な転回がある)。




マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!⋯⋯⋯⋯

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)