2019年5月30日木曜日

幼少の砌の固着の永遠回帰

固着によるタナトス」で(フロイト・ニーチェ・プルーストに依拠した)ドゥルーズにもとづいて、次の図を貼り付けたけれどね、





でも、固着とはもっと簡単に考えてもよいのでね、たとえば古井由吉はこう言っている。

頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。

小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年)


これがトラウマへの固着とその反復強迫(タナトス)の一つの典型的記述だよ。

外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式の発作 hysteriforme Anfälle がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事をわれわれは見出す。

それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…

この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年)

ーーこういったことはツイッターでの囀りをみても見えてくることがあるよ。ある状況を反復強迫してるんだろうな、この人は、とね。

表題を「幼少の砌の出来事の永遠回帰」としたけど、幼少の砌ではなくても、大きくなってからの外傷的出来事も、同じ反復強迫がある。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


というか、成人後の外傷的出来事の反復強迫が、フロイトがこの異物概念を真に発展させて考えだした起源。

フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)


古井由吉は、外傷的出来事への固着を永遠回帰に結び付けている。これも当然あるべき考え方。

三月十一日の午後三時前のあの時刻、机に向かっていましたが、坐ったまま揺れの大きさを感じ測るうちに、耐えられる限界を超えかける瞬間があり、空襲の時の敵弾の落下の切迫が感受の限界を超えかけた境を思いました。

つれて、永劫回帰ということを思い出しました。漢語にすればいかめしいが、この今現在は幾度でも繰り返す、そっくりそのままめぐってくる、ということとおおよそに取れる。過去の今も同様に反復される。病苦やら恐怖やらに刻々と責められたことのある人間には、思うだけでも堪え難い。

過ぎ去る、忘れる、という救いも奪われる。しかし実際に、大津波を一身かろうじてのがれた被災者を心の奥底で苦しめるものは、前後を両断したあの瞬間の今の、過ぎ去ろうとして過ぎ去らない、いまにもまためぐって来かかる、その「永劫」ではないのか。

永劫回帰を実相として示した哲学者は、その実相を見るに至った時、歓喜の念に捉えられたそうだ。生きることがそのままのっぴきならぬ苦であった人と見える。壮絶なことだ。現生を肯定するのも、よほどの覚悟の求められるところか。(古井由吉『楽天の日々』永劫回帰)


あの三月十一日の東北大震災で、《空襲の時の敵弾の落下の切迫が感受の限界を超えかけた境を思いました》ってのは、まさに次のフロイトだね。

経験された寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ 。⋯⋯(そして)現在に寄る辺なき状況が起こったとき、昔に経験した外傷経験 traumatischen Erlebnisseを思いださせる。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

これは中井久夫も同様なことを言っている、こちらは一月十七日にかかわる。

たまたま、私は阪神・淡路大震災後、心的外傷後ストレス障害を勉強する過程で、私の小学生時代のいじめられ体験がふつふつと蘇るのを覚えた。それは六十二歳の私の中でほとんど風化していなかった。(中井久夫「いじめの政治学」『アリアドネからの糸』所収、1996年)


排除と固着 (Verwerfung und Fixierung)」で貼り付けた、フロイトにおける固着の代表的語彙群の図を再掲すれば、





 これらは反復強迫するんだな、永遠回帰するんだ。

なかなか過ぎ去らない現在、というものがあって、とくに危機に陥ったときにそれはあらわれるんですよ。

記憶とは、取りとめもないものなんですよ。忘れもするし、とつぜん甦ってきたりもする。それから、いつしか記憶していたことが本当のことかどうかわからなくなる。知らないはずのことを思い出したりもする。

記憶は取りとめのないものだけど、じつはそれが何事かなんですよ。根源的な忘却にもつながっている。記憶はそういう根源的な忘却からつねに発してくるものじゃないでしょうか。生まれる前からの記憶みたいなものがあるんじゃないかと思ってね。(古井由吉「群像」2019年4月号/聞き手 蜂飼耳)


そして女への固着というのは、女主人の永遠回帰だ。これがボクにはもっとも関心があるのだけれどさ。

何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。

……そのとき、声なき声 ohne Stimme がわたしに語った。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスを語らない[Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)


《わたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrin》は、母なる超自我のことだろうとボクは捉えているね。

「エディプスなき神経症概念 notion de la névrose sans Œdipe」…ここにおける原超自我 surmoi primordial…私はそれを母なる超自我 le surmoi maternel と呼ぶ。

…問いがある。父なる超自我 Surmoi paternel の背後derrièreにこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求しencore plus exigeant、さらにいっそう圧制的 encore plus opprimant、さらにいっそう破壊的 encore plus ravageant、さらにいっそう執着的な encore plus insistant 母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)


ニーチェの神の死は、父なる神の死のこと。このエディプス的神を否定すれば、背後の「母なる神」が裸のまま現れるのは必然。

(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存dépendanceを担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

神とは、ラカンの思考において、超自我のこと。

一般的には〈神〉と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(ラカン, S17, 18 Février 1970)


で、母なる女の支配は永遠回帰する(免疫の薄い年頃、母に対して受動的立場に置かれたことは外傷的出来事)。

わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつっている。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだ―つまり、わたしの最高の瞬間を狙ってin meinen höchsten Augenblicken くるのだ…。そ のときには、毒虫に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした 予定不調和 disharmonia praestabilita を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ Aber ich bekenne, dass der tiefste Einwand gegen die »ewige Wiederkunft«, mein eigentlich abgründlicher Gedanke, immer Mutter und Schwester sind.。― (ニーチェ『この人を見よ』--妹エリザベートによる差し替え前の正式版 Friedrich Wilhelm Nietzsche: : Ecce homo - Kapitel 3 、1888年)


よく知られているように(?)、母なる女の支配とはメドゥーサの首の形象をもつ。

ツァラトゥストラノート:「メドゥーサの首 Medusenhaupt」 としての偉大な思想。すべての世界の特質は石化(硬直 starr)する。「凍りついた死の首 gefrorener Todeskampf」In Zarathustra 4: der große Gedanke als Medusenhaupt: alle Züge der Welt werden starr, ein gefrorener Todeskampf.[Winter 1884 — 85])
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)

より穏やかに言えば、

構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ,, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995)

ここでも古井由吉に登場ねがえば、

女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)


より過激に言えば、

女はその本質からして蛇であり、イヴである Das Weib ist seinem Wesen nach Schlange, Heva」――したがって「世界におけるあらゆる禍いは女から生ずる vom Weib kommt jedes Unheil in der Welt」(ニーチェ『アンチクリスト』第48番)

 ラカン的過激さなら、

(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)
母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢 la castration maternell が先立っているのである。父なる去勢 la castration paternelle はその代替に過ぎない。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)


一番よく知られているだろうものは、母なる鰐の口。

「母の溺愛 « béguin » de la mère」…これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の溺愛」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

母は巨大な鰐 Un grand crocodile のようなものだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)


というわけで、母とは、構造的には「穴の名」、「ブラックホールの名」。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、…「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

父とは「欠如の名」にすぎない。

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンの教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。(⋯⋯)

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , 6 juin 2001)





 穴の名とは別名、母の名。

ラカンは言っている、最も根源的父の諸名 Les Noms du Père は、母なる神だと。母なる神は父の諸名に先立つ異教である。ユダヤ的父の諸名の異教は、母なる神の後釜に座った。おそらく最初期の父の諸名は、母の名である the earliest of the Names of the Father is the name of the Mother 。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991)



これは古典的ラカンなら、下段が母の欲望DMとなる。





父の名の上覆いをしっかり保持している人だけだな、下段があらわれないのは。だから上に引用してきたような状況を知らないヒトってのは、究極のファルス人格ってことになる。

ラカン的思考においては、1970年以降は、徐々に母の名の時代。つまり快楽の時代から享楽の時代への以降がある。

父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)
エディプスの斜陽 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! 」と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)

そして、この時代の典型的症状は、「中毒」だというのが、現在のラカン派の考え方。

中毒は、超自我の勃興の時代における症状の新しい形態である。Addiction is the new form of the symptom in the era of the rise of the Super-ego (MUST DO IT! NEW FORMS OF DEMAND IN SUBJECTIVE EXPERIENCE" 2016)

これは母なる超自我と父なる超自我(エディプス的父の名)の区別がついていないと、ちょっとわかりにくい文かもしれない。



たとえばこの区別はドゥルーズにはない。日本においても中井久夫にもないし、柄谷行人にもない。