本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと想定される。Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist (⋯⋯)(例えば)男たちが本源的に抑圧しているのは、男色的要素(女性的要素)であるWas die Männer eigentlich verdrängen, ist das päderastische Element(フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
(母子関係において幼児は)受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」をとらされることに対する反抗がある…私は、この「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第8章、1937年)
ここにある「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」を「女性性の排除 Verwerfung der Weiblichkeit」と言い換えれば、ラカン派における「排除 forclusions」概念彷徨いのほとんどすべてが見えてくる。
父の名の排除から来る排除以外の他の排除がある。il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. (Lacan, S23、16 Mars 1976)
すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。
forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose(Anna Aromí & Xavier Esqué, PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert、2018)
そもそもラカンは、フロイトの「Verwerfung(排除)」を、最初は「拒否」を意味する言葉に翻訳している。
したがって「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は「女性性の排除 Verwerfung der Weiblichkeit」としうる。
そしてこの「女性性の排除 Verwerfung der Weiblichkeit」は、上にみたように、なによりもまず「受動性の排除 Ablehnung der Passivität」ーー母にたいして受動的立場におかれたことの排除ーーを意味する。
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存dépendanceを担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
人はみな主体性(能動性)を獲得するために、この原受動性を排除しなくてはならない。
母のもとにいる幼児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質 passiver Natur のものである。幼児は母によって授乳され、食物をあたえられて、体を当たってもらい、着せてもらい、なにをするのにも母の指図をうける。小児のリビドーの一部はこのような経験に付着haftenしたままで、これに結びついて満足を享受するのだが、別の部分は能動性 Aktivitätに向かって方向転換を試みる。母の胸においてはまず、乳を飲ませてもらっていたのが、能動的にaktive 吸う行為によってとってかえられる。
その他のいろいろな関係においても、小児は独立するということ、つまりいままでは自分がされてきたことを自分で実行してみるという成果に満足したり、自分の受動的体験 passiven Erlebnisse を遊戯のなかで能動的に反復 aktiver Wiederholung して満足を味わったり、または実際に母を対象にしたて、それに対して自分は活動的な主体 tätiges Subjekt として行動したりする。(フロイト『女性の性愛 』1931年)
この女性性の排除、受動性の排除は、ラカン派語彙ではこうなる。
「女性のシニフィアンの排除 la forclusion du signifiant de la femme」、「現実界の排除 la forclusion du réel 」、「享楽の固着 la fixation de la jouissance」はジャック=アラン・ミレール概念である。
「享楽の排除 la forclusion de la jouissance」とは(わたくしの知る限り)誰も言っていないが、《享楽は現実界》(ラカン、1976)なのだから、論理的にこうなる。そもそもラカンの享楽は、フロイトの《女性的マゾヒズム feminine Masochismus=苦痛のなかの快 Schmerzlust》(『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)に大きな準拠がある。
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
もう一つの表現「享楽の固着 la fixation de la jouissance」における「固着」は、これもフロイトを読み込めば、「排除」にほぼ置換できる(かならずしもすべてはそうでない、フロイトは排除という語をごく日常的な「拒否」という意味で使っている場合も多い)。
フロイトにとって固着とはエスのなかに身体的なものを置き残すことである。つまり「現実界への排除」である。
たとえば、ラカンは次の文で排除と抑圧を混在させて語っているが、この内実はどちらも排除である。
これは次の二文と並べて読めば、排除であることがわかる。
そもそも晩年のフロイトは、抑圧という語を原抑圧もひっくるめて使用している(参照:原抑圧・固着文献)。
ラカン自身における「抑圧」も場合によって「排除」としうる。たとえば次の文の抑圧は、原抑圧もしくは排除である。
ーー厳密には後期抑圧とは、表象を「心的装置内部(言語内)で脇に遣る」ということである。固着にかかわるだろう排除とは、「心的装置外部に放り投げる」という意味である。
たとえば中井久夫はこう言っている。
ーー実にすぐれた指摘である。
これはフロイトの次の文章群とともに読むことができる。
フロイトにおいては原抑圧のあるところには、常に固着がある。
これはラカン派において「シニフィアンのあるところには常に対象aがある」というのと相同的である。
したがって次のラカンの発言は、上のフロイト抑圧論文における《欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると⋯⋯暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、⋯⋯患者にとって異者のようなもの fremd に思われる》の「翻訳」として読める。
ようするに、固着とは「母なるシニフィアンを外部の闇へ廃棄することである」としうるのではないか。
この「母なるシニフィアン」とは、母に対して受動的立場に置かれた表象だとまず捉えうる(ただしそれだけではない。ここではシニフィアンの論理期のラカンの「女性」の意味合いを割愛して記述している)。
この表象はやはり耐え難いのである。したがって人はみな「母なる表象」を排除する。
この時期のフロイトには「境界表象 Grenzvorstellung」 という概念もある(参照:境界表象の永遠回帰)。
この境界表象はエスのなかに置き残されるのである。すなわち境界表象の固着であり、排除である。
フロイトにおける主要な固着用語遣いは次の通り。
これらの表現群は次のミレールとともに読むことができる。
身体の出来事とは、サントーム(原症状)のことである。
このサントームは反復強迫する(参照:トラウマ定義集)。
この文脈のなかで、ミレールは「享楽の固着」というのである、《 la fixation de la jouissance 》(Jacques-Alain Miller, Cours du 25 mars 2009)
ミレールが後期ラカンの鍵というのはフロイトの次の文である。
⋯⋯⋯⋯
※付記
たとえばシュレーバー。
シュレーバーの「女への変容 Verwandlung in ein Weib」とは、事実上「受動性への変容」であり、生物学的な女に変容したかったことではない。
さて最後に、はたしてフロイトが気づいていなかったかどうかの疑義を保留しつつこう引用しておこう。
なにはともあれ、彼の1990年代なかばでの段階での次の図は実にすぐれている。わたくしのここでの記述は、この図に示唆されるところが大きい。
たとえば、ラカンは次の文で排除と抑圧を混在させて語っているが、この内実はどちらも排除である。
私が排除 forclusion について、その象徴的関係の或る効果を正しく示すなら、…象徴界において抑圧されたもの全ては現実界のなかに再び現れる。というのは、まさに享楽は全き現実界的なものだから。
Si j'ai parlé de forclusion à juste titre pour désigner certains effets de la relation symbolique,… tout ce qui est refoulé dans le symbolique reparaît dans le réel, c'est bien en ça que la jouissance est tout à fait réelle. (ラカン、S16, 14 Mai 1969)
これは次の二文と並べて読めば、排除であることがわかる。
Verwerfung(排除)の対象は現実界のなかに再び現れる qui avait fait l'objet d'une Verwerfung, et que c'est cela qui réapparaît dans le réel. (ラカン、S3, 11 Avril 1956)
象徴界に排除(拒否 rejeté)されたものは、現実界のなかに回帰する Ce qui a été rejeté du symbolique réparait dans le réel.(ラカン、S3, 07 Décembre 1955)
そもそも晩年のフロイトは、抑圧という語を原抑圧もひっくるめて使用している(参照:原抑圧・固着文献)。
ラカン自身における「抑圧」も場合によって「排除」としうる。たとえば次の文の抑圧は、原抑圧もしくは排除である。
「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧されている。男にとって女が抑圧されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。
なによりもまず、女の表象代理は喪われている le représentant de sa représentation est perdu。人はそれが何かわからない。それが「女というものLa Femme」である。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)
抑圧は排除とは別の何ものかである。Eine Verdrängung ist etwas anderes als eine Verwerfung. (フロイト『ある幼児期神経症の病歴より』(症例狼男DER WOLF MAN)1918年)
ーー厳密には後期抑圧とは、表象を「心的装置内部(言語内)で脇に遣る」ということである。固着にかかわるだろう排除とは、「心的装置外部に放り投げる」という意味である。
たとえば中井久夫はこう言っている。
中井久夫)「抑圧」の原語 Verdrängung は水平的な「放逐、追放」であるという指摘があります(中野幹三「分裂病の心理問題―――安永理論とフロイト理論の接点を求めて」)。とすれば、これを repression「抑圧」という垂直的な訳で普及させた英米のほうが問題かもしれません。もっとも、サリヴァンは20-30年代当時でも repression を否定し、一貫して神経症にも分裂病にも「解離」(dissociation)を使っています。(批評空間2001Ⅲー1「共同討議」トラウマと解離」斎藤環/中井久夫/浅田彰)
解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)
サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
ーー実にすぐれた指摘である。
これはフロイトの次の文章群とともに読むことができる。
実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1917年)
エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、正規の無意識としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』、1938年)
翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」(原抑圧)と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、1896)
(心的装置による)拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)
フロイトにおいては原抑圧のあるところには、常に固着がある。
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。……
欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。
それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
これはラカン派において「シニフィアンのあるところには常に対象aがある」というのと相同的である。
ラカンによって幻想のなかに刻印される対象aは、まさに「父の名 Nom-du-Père」と「父の隠喩 métaphore paternelle」の支配から逃れる対象である。
…この対象は、いわゆるファルス期において、吸収されると想定された。これが言語形式forme linguistique において、「ファルスの意味作用 la signification du phallus」とラカンが呼んだものによって作られる「父の隠喩 métaphore paternelle」である。
この意味は、いったん欲望が成熟したら、すべての享楽は「ファルス的意味作用 la signification phallique」をもつということである。言い換えれば、欲望は最終的に、「父の名」のシニフィアンのもとに置かれる。この理由で、「父の名」による分析の終結が、欲望の成熟を信じる分析家すべての念願だと言いうる。
そしてフロイトは既に見出している、成熟などないと。フロイトは、「父の名」はその名のもとにすべての享楽を吸収しえないことを発見した。フロイトによれば、まさに「残滓 restes」があるのである。その残滓が分析を終結させることを妨害する。残滓に定期的に回帰してしまう強迫がある。(ミレール、大他者なき大他者 L'Autre sans Autre 、2013)
したがって次のラカンの発言は、上のフロイト抑圧論文における《欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると⋯⋯暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、⋯⋯患者にとって異者のようなもの fremd に思われる》の「翻訳」として読める。
「私が排除 Verwerfungというとき、……問題となっているのは、原シニフィアンを外部の闇へと廃棄することである。ce rejet d'une partie du signifiant (signifiant primordial) dans les ténèbres extérieure (Lacan, S3、15 Février 1956)
ようするに、固着とは「母なるシニフィアンを外部の闇へ廃棄することである」としうるのではないか。
象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンである le père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
この「母なるシニフィアン」とは、母に対して受動的立場に置かれた表象だとまず捉えうる(ただしそれだけではない。ここではシニフィアンの論理期のラカンの「女性」の意味合いを割愛して記述している)。
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存dépendanceを担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
この表象はやはり耐え難いのである。したがって人はみな「母なる表象」を排除する。
自我は堪え難い表象 unerträgliche Vorstellung をその情動 Affekt とともに 排除 verwirftし、その表象が自我には全く接近しなかったかのように振る舞う。(フロイト『防衛-神経精神病 Die Abwehr-Neuropsychosen』1894年)
この時期のフロイトには「境界表象 Grenzvorstellung」 という概念もある(参照:境界表象の永遠回帰)。
抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化Verstärkungによって起こる。(Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)
この境界表象はエスのなかに置き残されるのである。すなわち境界表象の固着であり、排除である。
フロイトにおける主要な固着用語遣いは次の通り。
これらの表現群は次のミレールとともに読むことができる。
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…身体の出来事はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…身体の出来事は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
身体の出来事とは、サントーム(原症状)のことである。
症状(サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE569, 16 juin 1975)
このサントームは反復強迫する(参照:トラウマ定義集)。
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
サントームsinthomeは、…反復的享楽 La jouissance répétitiveであり、…身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(Jacques-Alain Miller, L'être et l'un, 23/03/2011)
この文脈のなかで、ミレールは「享楽の固着」というのである、《 la fixation de la jouissance 》(Jacques-Alain Miller, Cours du 25 mars 2009)
ミレールが後期ラカンの鍵というのはフロイトの次の文である。
(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する契機 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
以上、現在のラカン派内でも誰も「直接的には」言っていないことなので誤謬があるかもしれない。だが今のわたくしはこう考えているということである。
なにはともあれ、ラカンの父の名の排除とは、限りなく限定された排除であり、内実は次のものである。
そして最初の父の諸名は「母の名 Le nom de la Mère」である。
なにはともあれ、ラカンの父の名の排除とは、限りなく限定された排除であり、内実は次のものである。
精神病においては、ふつうの精神病であろうと旧来の精神病であろうと、我々は一つきりのS1[le S1 tout seul]を見出す。それは留め金が外され décroché、 力動的無意識のなかに登録されていない désabonné。他方、神経症においては、S1は徴示化ペアS1-S2[la paire signifiante S1-S2]による無意識によって秩序付けられている。ジャック=アラン・ミレールは強調している、父の名の排除[la forclusion du Nom-du-Père]とは、実際はこのS2の排除[la forclusion de ce S2]のことだと。(De la clinique œdipienne à la clinique borroméenne, Paloma Blanco Díaz, 2018)
精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre, 2013)
そして最初の父の諸名は「母の名 Le nom de la Mère」である。
ラカンは言っている、最も根源的父の諸名 Les Noms du Père は、母なる神だと。母なる神は父の諸名に先立つ異教である。ユダヤ的父の諸名の異教は、母なる神の後釜に座った。おそらく最初期の父の諸名は、母の名である the earliest of the Names of the Father is the name of the Mother 。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991ーー父の名の過剰現前の真意)
⋯⋯⋯⋯
※付記
たとえばシュレーバー。
(早朝の夢うつつの状態で精神の外部から入り込んできたのは)それは性交のさいに下になる女性となることも、またやはりなかなか素敵なことに違いないという考えであった。このような考えは、私の気質にはまったく無縁のものであったのだ。いうまでもないだろうが、しっかり目が覚めているときであれば、このような考えは怒ってはねつけただろう。私はこの間の自分の体験に照らしてみるとき、その考えを自分に吹き込んだ何かしら外部からの影響がそこに関わっていたのではないかという可能性を、頭から否定してしまうことはもちろんできないのだ。(シュレーバー『ある神経症者の回想録』)
シュレーバーの「女への変容 Verwandlung in ein Weib」とは、事実上「受動性への変容」であり、生物学的な女に変容したかったことではない。
「男性的 männlich」とか「女性的 weiblich」という概念の内容は通常の見解ではまったく曖昧なところはないように思われているが、学問的にはもっとも混乱しているものの一つであって、すくなくとも三つの方向に分けることができるということは、はっきりさせておく必要がある。
男性的とか女性的とかいうのは、あるときは能動性 Aktivität と受動性 Passivität の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている。
…だが人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋な男性性または女性性reine Männlichkeit oder Weiblichkeit は見出されない。個々の人間はすべてどちらかといえば、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆 Vermengung をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との合一をしめしている。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
…この意味で、すべての人間はバイセクシャルである。人間のリビドーは顕在的であれ潜在的であれ、男女両方の性対象のあいだに分配されているのである。alle Menschen in diesem Sinne bisexuell sind, ihre Libido entweder in manifester oder in latenter Weise auf Objekte beider Geschlechter verteilen.(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第6章、1937年)
さて最後に、はたしてフロイトが気づいていなかったかどうかの疑義を保留しつつこう引用しておこう。
フロイトが気づいていなかったことは、最も避けられることはまた、最も欲望されるということである。不安の彼岸には、受動的ポジションへの欲望がある。他の人物、他のモノに服従する欲望である。そのなかに消滅する欲望……。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe 、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、 1998年)
なにはともあれ、彼の1990年代なかばでの段階での次の図は実にすぐれている。わたくしのここでの記述は、この図に示唆されるところが大きい。
父の名の過剰現前の真意 |
原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。(PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?, 1999)