2019年5月9日木曜日

サントームは超自我の別の名

超自我について記すってのは分厚い壁があるね。日本はもちろんのこと、英語や仏語でみてもほとんど自我理想と超自我の区別がついてないからな。

ラカン派っていうか、主にミレール派(ジジェクも含む)だけだな、区別をつけてるのは。

超自我ってのはラカン自身も冗談言ってるぐらいだからな。

私がいまだかつて扱ったことのない唯一のもの、それは超自我だ(笑)la seule chose dont je n'ai jamais traité, c'est du surmoi [ Rires ] (Lacan、S18, 10 Mars 1971)

ミレール は1988年のBuenos Aires会議で、超自我は、ラカンが最初にフロイトから抽出した概念だと言っている。

太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)

でも、こうも言っている。

ラカンの教えにおいて「超自我」は謎である。「自我」の批評はとてもよく知られた核心がある一方で、「超自我」の機能についての教えには同等のものは何もない。(ジャック=アラン・ミレール1988ーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO by Leonardo S. Rodriguez)


ラカンの次の発言がたぶん超自我に触れた最後のもの。

要するに、自我理想 Idéal du Moiは象徴界で終わる finir avec le Symbolique。言い換えれば、何も言わない ne rien dire。何かを言うことを促す力、言い換えれば、教えを促す魔性の力 force démoniaque…それは超自我 Surmoi だ。(ラカン、S24, 08 Février 1977)





この当時ぐらいからラカンはボロメオ病にかかって、だんだん失声気味になって黒板にボロメオ変奏ばかりを書くようになる。








フロイトも1926年に原抑圧と超自我との関係がはっきりしないとして、これをなんとかはっきりさせなくちゃいけないと言いながら、死ぬまでたいしたことは言っていない。


フロイト・ラカンのふたりとも原抑圧ーー上の図にある「穴trou」--と超自我の関係を問うているんだが、さて、「原抑圧ってのは超自我のことだよ」って唐突にいったらイミフだろうから、ながながと書かなくちゃいけなくなるしな。そもそも原抑圧が何種類もあることさえ日本ではわかってないヒトばっかりだし。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


ミレールは直接には原抑圧=超自我と言っていないけれど、ほとんどそう言っている、--とわたくしは読む。


まずS(Ⱥ)=超自我。

S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique , séminaire2 - 27/11/96)
フロイトは欲動の昇華sublimation de la pulsionについて語った。そしてラカンとともに、欲動の超自我化surmoïsation de la pulsion,を語ることが可能である。超自我は欲動によって囚われた形式であるle surmoi est une forme prise par la pulsion。(エリック・ロラン、ジャック・アラン・ミレール 、E. LAURENT, J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96 )


次にS(Ⱥ)=サントーム=固着

我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN 」)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure, 2011)


固着とは原抑圧のこと(参照)。

「抑圧」は三つの段階に分けられる。 

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後期抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、 抑圧の失敗 Mißlingens der Verdrängung・侵入 Durchbruch・「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてリビドー的展開 Libidoentwicklung の固着点への退行 Regression を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 摘要訳)


S (Ⱥ)という欲動のクッションの綴じ目(固着)を置くのは、母なる超自我。

S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)
母なる超自我 surmoi mère ⋯⋯思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配されさえする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(⋯⋯)我々はこの超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール1988、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)


以上、蚊居肢散人のあたまのなかではこうなる。

サントームは超自我の別の名である。
Le sinthome est un autre nom de Surmoi

原抑圧は超自我の別の名である。
Urverdrängung est un autre nom de Über-Ich

リビドー固着は超自我の別の名である。
Libidofixierung est un autre nom de Über-Ich


ーーと記しても誰も納得しないだろうがね、世界的にも。


女というものは超自我の別の名である。
LȺ femme est un autre nom de Surmoi

ーーだったらラカン自身がほとんど言ってるんだけどな。

問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)


次の父の名を母の名にかえたらいいだけだ(参照:母の名 Le Nom de Mère)。

無意識の仮説、それはフロイトが強調したように、父の名を想定することによってのみ支えられる。父の名の想定とは、もちろん神の想定のことである。 L'hypothèse de l'Inconscient - FREUD le souligne - c'est quelque chose qui ne peut tenir qu'à supposer le Nom-du-Père.Supposer le Nom-du-Père, certes, c'est Dieu.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)
ラカンは言っている、最も根源的父の諸名 Les Noms du Père は、母なる神だと。母なる神は父の諸名に先立つ異教である。ユダヤ的父の諸名の異教は、母なる神の後釜に座った。おそらく最初期の父の諸名は、母の名である the earliest of the Names of the Father is the name of the Mother 。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991)


で、もしひとが《女というものは超自我の別の名である LȺ femme est un autre nom de Surmoi》を納得したら、「女というもの」の箇所にサントームを代入すればすべてはすっきりするんだかな。

ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)


実はフロイトを引用しつつ、いかにこれが正しいかをながながと記したんだが、だれも興味ないだろうから簡潔版のみ示しておくよ。たぶん日本ラカン派社交界では30年後ぐらいにわかる人物がでてくるかもな。


いやあごめんなさい、でももともとこの記事ってのは口から出まかせだってのがわかるだろ?

出まかせついでにこうも記しておくよ、焼酎図書の無知集団」で既に記したことだが。

・サントームは死の欲動の別の名である。
Le sinthome est un autre nom de Thanatos

・サントームは外傷神経症の別の名である。
Le sinthome est un autre nom du névrose traumatique


ーーええっと、前置詞ってこれでいいのかな・・・ま、細かいことはどうでもよろしい。

でも次のものは由緒正しくミレール派ナンバースリーの Pierre Gilles Guéguen のものだ(2018年、pdf)。

「タナトスは超自我の別の名である Thanatos est un autre nom de Surmoi」