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2019年6月3日月曜日

愛は自殺の一形態である

ネット上に落ちているバタイユ研究者たちの論文を10本弱ほど読んでみたが全滅である。彼らはバタイユの思考の核心の一つ、エロティシズムと死の関係をいまだ全く掴んでいない。バタイユが語ろうとして明示的には語り切れなかった「エロティシズム=死」を(ここで括弧つきで自白しておかなければならない、蚊居肢散人のバタイユ知は、3週間漬け程度である)。

なにはともあれ、次のような文からにおいを嗅がなくてはならないのである。嗅覚が鋭敏でないとエロ事師の資格はありません。

あたしは、死の中までお前に愛されたいと思います。あたしのほうは、いまこの瞬間、死の中でお前を愛しています。でもあたしがいまわしい女であることを知ったうえで、それを知りながら愛してくれるのでなければ、お前の愛は要りません。…(ジョルジュ・バタイユ『わが母』)

もちろんよく知られているように、研究者とはもともと寝言ばかり言う種族ではあるが。

学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』1882年)


肝腎なのは次の命題である。

生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod. (フロイト『快原理の彼岸』第5章)
すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)

すなわち、生の欲動は死の欲動である。エロスとタナトスではない。エロスはタナトスなのである。究極のエロティシズムは死である。荒木経惟のエロトス概念は(本人の意図がどうであれ)限りなく正しい。

バタイユ研究者は初期ラカンが言っていることさえ毛ほども理解していない。

愛は自殺の一形態である l'amour est une forme de suicide(ラカン、S1、07 Avril 1954)

おそらく真の性行為をやったことがないボウヤとオジョウチャンばかりなんでせう。だったらバタイユなんか研究しなかったらいいのに。


プラトン以来の命題を受けた精神分析的記述は次のものである。

哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft(愛の欲動 Liebestriebe) …と完全に一致している。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)


したがって、究極のエロスとは死である。




大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un。…

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ボウヤたちにもわかりやすい穏和な表現をすれば、《愛は死の欲動の側にある l'a mour est du côté de la pulsion de mort.》 (Jean-Paul Ricœur, LACAN, L'AMOUR, 2007)である。

これでも納得されないオジョウチャンたちは文献集「エロス欲動という死の欲動」を見よ。

100年近く前のフロイト語彙群のエキスを示せば次の通り。




エロス欲動とは引力に吸引される自己破壊欲動であり、これこそ死の欲動である。

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

何の引力であるかは、既に1900年のフロイトの書の冒頭にある。

(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)


この基本を把握していないエロ研究者とはゼロである。

とはいえ、まずヤリまくることである。肝腎なのは夜だけではない。朝昼晩である。体力がいるのである。おそらく3年ほどで「エロティシズム=死」を全的に体感される筈である。すると3秒ほどで上の記述の意味合いが瞭然とすることでせう。研究者同士でなんでやらないんだろ?