2019年6月14日金曜日

政治嫌い

けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987)
私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界のなかに踏みこんできた。(加藤周一「現代の政治的意味」1979年)

やあ、ボクは政治なんて全然キライだよ。

私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。(ブレヒト『政治・社会論集』)


ようは権力の道具という「芸術家」にだけはなりたくないだけでさ。

・芸術家とは、その内的な感性の鋭さ故に政治に背を向けるのではない。内的な繊細さが要求されてもいないときに外的な鈍感さを装う、きわめて政治的な存在なのである。それはほかでもない、制度的に深く政治に加担する存在だということだ。

・自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている(……)。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものかを、あえてここで列挙しようとは思わぬが……。

・混乱に対して共感を示さずにおくことの演じうる政治性に無自覚であることの高度の政治的選択。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)

それに、ことあるごとに消費税やら年金やらで尻を赤くして騒ぎ立てる日本猿をバカにする楽しみだってあるからな。これが一番かな。